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耕治人『そうかもしれない』

耕治人『そうかもしれない』の一節に私は涙を流す。
耕は80歳を越え舌癌を患って入院した。食べることがひどい痛みを伴い痩せていき、40kgを切るようになる。そんな耕を認知症で施設に暮らす妻が職員に伴われてやって来る。
車椅子の妻に職員は「この人は誰ですか?ご主人ですよ」と何回も尋ねる。妻はわからないのか黙っている。
何回か言われて、最後に低い声で「そうかもしれない」とつぶやくのだ。

向かい合う耕は打たれたようになる。

妻は何かを感じたのだと私は思う。目の前の人が誰だかわからないけど、なつかしい、少しの痛み、ぼんやりとした輪郭、とても大切にしていたもの、50年以上を共に生きたシミのようなもの。

耕が感じたのは自分もわからなくなってしまったのかという動揺ではないだろう。
二人の間に残されたわずかな、蚕の糸のようなものを見たのではないか。
やがてはさらに遠ざかり、死とともに消えてしまう二人の間にある何モノか。自分のためにすべてを犠牲にしてきた小さな存在に対する申し訳なさ、いとおしさ、自分の不甲斐なさ。

母が入院した時のこと。施設にいる90歳を越えた父と見舞いに行った。母は認知症である。食べることも話すこともおぼつかなくなっていた。
車椅子と車椅子の対面。母は父に無関心である。看護師さんが「旦那さんが来てくれましたよ」と言っても笑顔さえ見せない。父が話しかけるが答えが聞けない。
そんな二人を悲しくみていたが、最後に「じゃあ帰るね」と父の車椅子を押して行こうとした時、母が父を見て「会いたかった人」と言ったのだ。
私は打たれたようになった。
二人の間にある、確かなモノを見たのだ。
50年以上ともに過ごし、戦後の貧しい中を必死に誠実に働いて生きた二人の間にあるモノ。痛み、喜び、不安、匂い、温もり、ねぎらい、‥‥
そして、すぐそこに終わりがある二人。

この時、認知症がとても尊いものに思えた。
天はすべてを奪ったりしない。何かを残すのだ。

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