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父はシベリアに4年間抑留された

≪満蒙開拓団青少年義勇軍≫

1940年父は14歳で満蒙開拓団青少年義勇軍となった。農家の三男であり、夢の大陸で開拓をという教師にそそのかされてひとり渡満した。当時の身長は142㎝、体重40㎏との記録がある。子供ではないか。
17歳の時、父の父親が死亡するが、関東軍の指示で帰国できない、兵隊に行ったと思って諦めてくれという故郷に宛てた手紙が残っている。
1945年5月、19歳でいわゆる根こそぎ動員で召集され、衛生兵として働くが、わずか3か月で敗戦となり捕虜としてシベリアの収容所を転々とした。帰国できたのは4年後1949年10月ナホトカから舞鶴に信洋丸で帰ってきた。
父の死後、厚生労働省にロシア政府から提供された記録があることを知り、問い合わせた結果、上記の父の足取りを知ることができた。ロシア語の抑留者名簿、個人資料、抑留者登録カードに丁寧に日本語訳を付けてくれた。身体的特徴、宗教、日本の住所、家族兄弟の名前、仕事、等、細かい記録が残されていた。ロシア語の文字を見ていると厳寒の抑留地で大きなロシア兵の前に立たされている小さな父の姿が浮かんでくる。厚生労働省社会・援護局の丁寧な報告は父の苦難を決して疎かにしない思いが感じられて心から感謝した。
父は何も語らなかった。何年抑留されたのかの問いに「4年」とだけ答えてくれたが、顔をあげなかった。それ以上聞けなかった。ばたばたと死んでいく中、若かったから耐え、生きて帰ることができたのであろう。そして94歳まで生きた。
父の遺品に内閣総理大臣の銘が入った小さな銀杯があった。シベリア抑留者に贈られたものである。猛烈に腹がたった。怒りと悲しみが抑えられなかった。これで何かをした気になっていることが許せなかった。銀杯は即座に売り払った。6000円ほどであった。


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