孝行のしたい時分に…の前に
私を含めた"生きている人"が、故人を想うという行為は極端に無慈悲に言ってしまえば"無駄"だとも言えます。しかし、私自身数年前に祖父が亡くなってから彼を想わない日はありません。
私にとっては初めて亡くなった身内でもありました。
祖父が亡くなってからと言うものの私は"あの時もっと会話していれば"や"もっとどこかに連れて行けなかっただろうか"と、今更どうしようも無い事を思い気持ちが塞ぐ機会が非常に多くなったのです。
私は幼い頃はおじいちゃんっ子と呼べるものではありませんでした。家は当時大農家であり、酪農家であったものの、学生時代はインターネットに入り浸り、引きこもりがちで当時の家業は殆ど手伝う事も無かったと記憶しています。
その後も私は家業を継ぐ事も無く、というか家業を継ぐと言う話も無く、祖父が病に倒れてからは静かに家業を畳み流れとなり、普通の会社員として今も生活をしています。
私が"おじいちゃんっ子"と言われるようになったのは、祖父の晩年、私が社会人になってからです。私の中にどういう心境の変化があったかは自分でも分からないのが正直です。祖父の名前を言えば地元の人間が誰しも振り返るような大農家・大酪農家の後を継がなかった事への贖罪がもしかしたら心の潜在的な部分にあったのかも知れません。それとも祖父と私の間に"残された時間"を感じ取ったからなのかも知れません。
いずれにしても、事あるごとに祖父に旅行先の日本酒や名産品を買っては送ったり届けたりしていました。
"残された時間"というのは、言わば個人の主観なので、短いように見えて驚くほど長ったりもするものです。しかし、祖父との恒久の別れはあまりに突然でもありました。
今でも私は祖父の命日や誕生日には実家に帰省し、彼が好きだったかりんとうや日本酒を旅行先から買って仏前にお供えして故人を偲ぶのです。"死んだ人間の誕生日を想うなんて"と、半分自嘲しながら先日も祖父の誕生日に日本酒とかりんとうを供えて来た次第です。
さて、祖父が亡くなってから祖母はと言うと、元々お互いに対立が多かったからか、全くと言っても良い程に様子が変わる事はありませんでした。
とは言え、家に1人でいる時間が増えたので寂しいだろうと言う事で祖母の子ども達、つまりは私の母親の兄妹達があちこち旅行に連れて行くようになり、少なからず同年代のシニア層では割とアクティブな部類のおばあちゃんとなりました。
従って、祖母から見て孫にあたる私が改まってどこかへ行かないかと誘ったりする事は、必要性を感じる事が無かったのです。私は"今を生きている"祖母を言わば蔑ろにして"死んだ"祖父の追憶を数年間続けていました。
先日、実家に帰省する用事が出来ました。用事と言えども、毎月1回は必ず帰るようにしていたので珍しい事ではありません。
平日だった事もあり、実家に帰ると祖母が1人で裁縫をしておりました。互いの近況を適当に会話をしながら用事を済まして、仏前で祖父を拝み、帰ろうと支度をしていた時です。時刻は昼前だった事もあり、地元の食堂で食べようか等と考えておりました。
その時に私は祖母が痩せて、すっかり腰が丸くなり小さくなっている事に気がついたのです。
祖母は細かい体調不良はあれども、入院するような大病を患っていた記憶はありませんし、両親からもそんな話は聞いていませんでした。
"死者"の祖父を想う間に"生者"の祖母の老いに私は全く気付けていなかったのです。
私は自らに愕然となりました。日々家族の誰かが帰ってくるまで1人で黙々と裁縫をする祖母の心中と時の流れを改めて考えると、自らの身勝手さ、傲慢さと"今を生きている"彼女に対する無礼さに戦慄しました。
私は祖母と一緒に地元の食堂に昼食を食べに行く事にしたのです。
そう言った心の変化を経て、ようやく私は祖母孝行(そう言う単語はあるのか?)をするようになりました。
食堂に着いて席に座るまでも祖母がすっかり腰が曲がって小さくなり、歩幅も短くなっている事に気付かされ、時の流れの残酷さと自らの浅はかさに打ちひしがれました。
しかし、幸い食事ペースは遅くなってはいたものの、自分でオーダーした食事はしっかりと平らげたので食は細くはなって居ないようでした。
減った毛量、深くなった皺、丸くなった背中、食事中も私が今まで気づけなかった祖母の老いを再確認させられる部分はたくさんあり、その度に彼女と私の"残された時間"を直視せざるを得ないのです。
ひと足先に食事を終えた私は祖母を見ながら何か出来ないかと考えました。
岩手県の大船渡市に"世界の椿館・碁石"という施設があります。その名の通り、世界中の約550種類の椿を見る事ができる"椿特化の植物園"です。私自身も植物が好きで、何度か訪れた事があります。毎年1月下旬〜3月下旬にかけて"つばきまつり"というイベントを開催しています。
一緒につばきまつりを見に行ったのは、祖母と昼食を共にした数週間後の話です。
元々祖母は家庭菜園や園芸が趣味だったので、私が椿館へ行かないかと誘った時は驚いてはいましたが迷う間はほとんど無く、快諾してくれました。
実家から私の車を走らせて3時間ほどの距離です。三陸自動車道が岩手県をほぼ横断する形で整備されたので、10年前に比べると沿岸地域へのアクセスは大変に容易いものです。
植物園でも祖母は一つ一つの椿に向き合って、解説をしたり何かを語りかけていたりと楽しそうにしておりました。つばきまつりのイベント企画で、自分のお気に入りの椿に投票をするというのがあり、祖母と私で互いにどの花に最も心が打たれたかを話し合いをしたりしました。
ランチには世界の椿館・碁石からすぐの場所に"岬"という太平洋を目の前に食事を楽しめる食堂があります。祖母と私はここで昼食を摂る事にしました。
ここの海鮮丼が絶品で、ただお刺身を乗せるだけでは無く、炙るべき魚は炙り、〆た方が美味しい魚は〆たりと、一手間掛かっているのです。更には、日替わりでオカズの小鉢も付いているのですが、そちらの味付けも絶品で私はリピーターなのです。
私はいつも通り海鮮丼をオーダーしました。私は祖母がウニが好きな事を思い出しましたので、しばらく悩んでいた様子の彼女に蒸しウニ丼を勧めたところ、合点が入った様子で注文をしました。
私が頼んだ海鮮丼は、やはり期待を裏切らない美味しさです。今回の日替わりオカズだった煮魚も丁寧な味付けでした。祖母の蒸しウニ丼は、おおよそ80代の方が食べるにはあまりにボリューミーに見えましたが、美味しい美味しいと呆気なく平らげたのです。
帰りも道中に道の駅に立ち寄ったりと、ただの往復にならない帰路を心掛けました。
椿館へ行った後日、祖母は周りの人達に孫と一緒に大船渡観光をしたと孫自慢していると母親から連絡を受けました。周りから見れば大層立派な孫です。しかし、実際そんな事はありません。
祖父への追憶をする間の私は祖母を気に掛けた時間はほとんどありませんでした。祖母が小さくなって、細くなった事にすら数週間前まで私は気付けて居なかったのです。とんだ不孝者です。
ようやく気付けた時には、祖母と私の間に"残された時間"はもう僅かでは無いか、と思わざるを得ないという段階になってしまいました。
孫と椿館に行った自慢話の中で祖母は
『こんな幸せな機会はもう無い』と言っているそうです。
これから毎月毎月どこかへ誘うのはあからさま過ぎますし、祖母の体力的にも限界はあると思います。それならば、祖母と話をする時間を割いたり、仕事での出張先のお土産を買ってきたり、少しでも私と彼女との増やしたいと思います。
彼女にとっての"こんな幸せな機会"を、あと1度だけ、いや2回3回は私は提供したいです。
そしてこれはきっと長い目で見た時に、今は祖母に対してそう思っていますが、いつかは両親の番になるのでしょう。
祖父に対して、もっと一緒に居たかった、もっと腹を割って話をしたかった、もっと見せたいのがあった、と今日も死んだ人に私は後悔の念を抱いているのです。
故人を忘れるという事が本当の死と考える方もいらっしゃいます。しかし、最初に書きましたが、そう言った行為は無慈悲に言ってしまえば"無駄"です。
孝行のしたい時分に親はなし
という言葉がありますが、全くもってその通りです。
こういう想いを繰り返さない為に、今目の前の大切な人を共に過ごす時間がいかに尊いかと気付かされる出来事なのでした。
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