見出し画像

『赤ちゃん』は『大人のための教科書』である!|好奇心や感動の源泉について探究!




【赤ん坊】

  • 多くの赤ん坊は先入観や予断が無く、習慣的に新鮮なものの見方をする。

    • 創造性・好奇心・探究心が比較的に強い。

【大人】

  • 多くの大人は既存の常識や先入観に囚われている。

    • 創造性・好奇心・探究心が比較的に弱い。


【この差は何が創り出しているのか!?】

『赤ん坊の視点』と『大人の視点』には大きな差がある。

『赤ん坊』は『枠の外』で自由に動き回るが、
『大人』は『枠の中』に依存してしまっている。

依存というものは『習慣』が創り出すから、この差を創り出しているのは習慣、即ち『自分』である。

そこに依存することで生じる副作用は、多くの人を翻弄している。

『木を見て森を見ずの状態ではそれに気づきづらくなる』というも厄介だ。


【根本的な原因は教育にあるのか!?】

 『創造性・好奇心・探究心・感動』の源泉が『枠にとらわれない環境』だとするなら、それは以下の指標を用いて説明することができる。

《 図1について 》

日本は、持ち前の『画一化された教育』を正当化してぶん回している。

だから全体としての平均値が高くなっている。

しかし、その既存の猥褻な枠にハメられた結果として、『人間として大切な内発性』が抑え込まれる、という事件が起こってしまっている。

日本は、いつまで戦後から変わらぬ猥褻な教育をし続けるのだろうか。

《 図2について 》

この図は、『若い日本人の好奇心の度合いが、北欧の老人並み』だということを示している。そして、猥褻な教育から抜け出して社会に出て、少し経ったところで、好奇心が再び回復している。

『猥褻』は言い過ぎかもしれないが、決して自慢できるものではない、ということだけは確かで、これは皆が団結して変えていかなければならない問題なのではないか。

全共闘が体制側と戦っていなければ、もっと悲惨なことになっていたかもしれない。教育は社会変革のための手段でもある。卑劣な大人たちの既得権益維持のためのコマを生産する教育は不必要だ。

参照元
参照元

【好奇心や感動の源泉を探究!】

感動することをやめた人は、生きていないのと同じことである。

アインシュタイン

『感動』によって感情が揺さぶられ、そこを原点として好奇心などが湧いてくるのではないか?

『本来の教育とは知識の伝達ではなく、動機付けである』というのをいつの日か本で読んだが、それへの理解がより深化した気がする。

物事に触れて『感動』することで『動機』が誕生して強力な展開が始まる。

これが人間の『基本』でもあるし『自然、即ち赤ん坊』でもある。

だから、私を含め、多くの大人は、赤ん坊から学ぶべきだ。


この記事が参加している募集

ふるさとを語ろう

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?