記事一覧
【ショートストーリー】モスグリーンのセーター
空には、半月からやや膨らみ始めたくらいの月が、少し傾いだように浮かんでいる。
湿気が多く、街並みや道路を走る車のライトが、細かい水滴のプリズムを通して見ているみたいに鮮やかだった。仕事帰りの夜だった。駅の階段を登り切った後、直之は電車のやわらかな、緑色のベルベッド生地でできたようなクッションの上に疲れた体を投げ出した。車内には化粧品と香水と汗と、それから何か食べ物のようなものが混じり合ったよう
畳に寝ころびながら天井を眺める
畳の上に寝ころぶのが好きだ。
畳の上に仰向けに両手を左右に大きく広げて寝ころび、背中で畳の少し温度の低いひんやりとした優しさを感じながらぼんやりとするのだ。杉の木でできた天井の木目はまるで命のゆらぎのように柔らかな曲線を描き、ぼくはその模様をなぞるようにしながら眺める。
畳の上に寝そべると、なんだか嫌なことがすべて忘れられるような気がする。リラックスして、まるで世界が自分だけのものになった
【短編小説】オリオンと月の弦
間違った電車に乗ってしまった。
車内がやけに空いている。なんだかおかしいなと気づいたときにはもう、扉は閉まったあとだった。
急行列車に乗るはずだったのに、何かに心がとらわれていたようで、その時ホームに入ってきた各駅停車の列車に考えなしに乗り込んでしまったのだ。
ーーー早く帰り着きたいときに限って・・・くそっ・・・
仕事がちょうど繁忙期に入り、この1週間は毎日帰りが遅くなっていたのだ。
ずっと同じ景色を見ていた
先日、インフルエンザにかかった。
きちんと予防接種をしたにも関わらず、それでも感染し発病し、ぼくのウイルスがもとで家族全員が最終的にインフルエンザで寝込むことになった。
もちろんぼく以外の家族もみんな予防接種をしていたのに、だ。
程度の問題なのかもしれないけれど、こうでもあれば結局予防接種なんて単なる気休めでしかないのかもしれないな、などと考えてしまうわけだ。
ワクチンをしない主義の
彼女の真っ赤な顔、それはまるで未来そのもののように
「一緒に走ってくれへん?」
冬になると多くの学校の体育は持久走になる。これは今も昔もそれほど変わっていないようである。
例に違わず娘の学校でもそれは同じのようで、去年の暮れに1000メートル走を走ったそうだ。そして、次は25分間走り続けるということでどうも走るための体力をつけたいということのようなのだ。
ぼくに似て、娘も持久走が苦手なのだ。
正月に走ろうと言っていたのだけれど、正
2023年を雪国で閉じる 〜 noteの皆さん今年もありがとうございました(^^)
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
2023年に最後に読み終えた小説が、川端康成氏の「雪国」だった。
これまでずっと読みたいとか、いつかは読んでおかなければ、と思いながら読み残している本はたくさんあるが、この「雪国」もそのうちの一冊だった。
2023年は、比較的本が読めない年だった。体調を崩す時期も多かったのもその原因の一つだろうし、職場が変わり環境の変化に心と体を慣れさせな
EvernoteからUpNoteへ ~ さよなら、緑色の象
先日、ここのところ一部界隈で話題になっている? Evernoteというメモアプリを別のアプリに乗り換えた。
Evernoteは、緑色の象の横顔のアイコンが印象的で、割と気に入っていて長年使っていたのだが、度重なる仕様変更と、超強気なサブスクリプション料金設定を利用せざるを得ない状況になったので、もう乗り換え待ったなしとなってしまったのだ。
乗り換え先のアプリは何がよいか?
こういうの
殺風景な寒い部屋で小さく息をもらす
師走にはいり2023年、令和5年もあと残り僅かになった。
最近しばしば胸に去来するのは、(実際まだそんなことを考えるのははやいかもしれないが)あと何回桜が見られるのかなとか、スイカに塩をかけて「ああ美味しいなぁ」という感覚をあとどれくらい得られるのか、などという侘しい感慨である。
花見なんてものはそう毎年やるものではなし、そう思うとちゃんと桜をみる機会なんてこれまでも数えるほどしかなかっ
【短編小説】『詩と暮らす』から始まる小説:Moon light
詩と暮らすというのは、まさにあの先輩のことだった。
大学時代、ぼくらは文芸部という、他の学生たちから見れば得体のしれないであろうサークルに属していた。
部室の中は、いつもタバコの煙とコーヒーの匂いの入り混じったような空気に満ちて、西陽が指す頃には妙に美しい靄のような光に支配されるその空間で、あるものはワープロをうち、あるものはパソコンで文書を編集し、あるものは部室にあるラクガキノートのよう
【短編小説】海の向こう
クモが出た。
夜、2階の部屋から扉を開けると、目の前の白い壁紙に大きめのクモがはりついていた。長くて細い10本の足を大きく広げ、一瞬だけその足のどれかをピクリと動かしたかのようにも見えたが、それからあとはじっと身動きをしなくなった。
隠れようもない白い背景の上で身を潜めるようにしながら、その複眼は静かにこちらの動向をうかがっているのかもしれない。あるいはどこか別のところを必死に見つめながら
たそがれ時にたゆたう
夏の香りがまだ残る季節。
見上げると、かすかに黄色く色づいた細い雲がたなびくように広がって、空を複雑で繊細な色合いに染め上げている。
今夜は、カツオのたたきと美味しい日本酒でも買って、ゆっくりひとり酒を楽しむもう。そんな思いで、家を出て買い出しに向かう途中だった。
池の周りでは、何人かの人とすれ違う。散歩をする人、ジョギングをする人など様々だ。
テラスのようになったカフェの席では、2
引き出しの中にあるもの
仕事場に来るヤクルトの販売員さんが、こないだ新しい人に変わった。
新人で、まだ慣れていないので、最初はマネージャーさんと一緒に担当のところを回ることになっている。
マネージャーに促されながら、今日からよろしくお願いします、と挨拶をし、A4の自己紹介シートを手渡してくれた。
まず、ぼくは名前を覚えようとした。なるほど、〇〇さん。そして出来得る限り頭に叩き込んだ。
やっぱり、名前で呼
嵐の夜に、思い出の味
こないだのこと、台風が近畿地方を直撃するというその夜、久しぶりに父母の住む実家へと向かった。
実家は職場に近くて、歩いて30分ほどの距離にあり、いつもの通勤に使う電車は止まる可能性が高いということもあり、その夜は実家に泊まることにしたのだった。
母に泊まりに行くことを電話で伝えると、二つ返事でOKをもらえた。
父も母も高齢で仕事もしていないため、たいていは急にいっても問題がないのである