見出し画像

【短編小説】『詩と暮らす』から始まる小説:Moon light

 詩と暮らすというのは、まさにあの先輩のことだった。

 大学時代、ぼくらは文芸部という、他の学生たちから見れば得体のしれないであろうサークルに属していた。
 部室の中は、いつもタバコの煙とコーヒーの匂いの入り混じったような空気に満ちて、西陽が指す頃には妙に美しい靄のような光に支配されるその空間で、あるものはワープロをうち、あるものはパソコンで文書を編集し、あるものは部室にあるラクガキノートのようなものに自らの独り言を書き連ねていた。
 ぼくらはそんなセピア色の世界の中で、あの頃の時間をすり減らしていたのだった。たとえそれがほんの短い時間であれ、あるいは永遠の時の流れであれ。

 ある時、大学図書館の前を歩きながら、空を見上げた先輩は言った。

 おい、光太郎。お前ならあの青空をどう表現する?

 ーーそうですねえ、いろ紙を広げたような青空・・・とか?

 ぼくは言い、先輩の横顔を見やった。

 ーーなるほどな。さすがやな。

 先輩は言った。先輩の柔らかい質の髪が風に揺れていた。
 先輩ならどう表現するのか聞いてみると、彼は立ち止まり、空を見上げたまましばらくじっとしていた。

 ーー言葉にできんくらいの青やなあ。俺の持ってる言葉ではまだ表現できひんわ、あの青空は・・・

 僕らは時々こんな遊びをしながら大学内を歩いたりしたものだった。

 喫茶店でコーヒーを飲むときも、居酒屋で酒を飲むときも、そして酔っ払って三条大橋を二人して闊歩するときも、先輩の心はいつも詩の言葉に向かっていた。

 やがて、先輩は卒業し、どこかの会社に就職した。それはまるで文学とは関わりのない業界だったように記憶している。
 そしてその翌年にはぼくも小さな印刷会社に就職した。

 毎日が、まるで早瀬のように流れ去っていった。その中で、ぼくはいつしか、詩を書くこともなくなり、ただ溺れないように、そしてただ流れに身を任せるだけのようにして生きてきたのだ。そうすることが一番楽だったから。

 ある冬の日、出張でぼくが通っていた大学の近くまで行くことがあった。大学は冬休みに入っていて学生はまばらではあったけれど、その周りを歩くだけでもなんだかとても懐かしかった。

 あの頃よく通った喫茶店がまだあったので、ぼくはそこでコーヒーを飲んだ。
 サイフォンで淹れるここのコーヒーを、ぼくたちは一体何杯飲んだことだろう。ここで一体どれくらいの時間を過ごしたんだろう。そういえば文芸部の仲間と夜通しここで話をしていたこともあったなぁ。

 漆黒のコーヒーの表面に、疲れた自分の顔が映って揺れていた。

 店内には、オスカー・ピーターソンのピアノの演奏が静かに流れていた。壁には学生たちが書いた青臭い落書きがいくつも刻まれていた。
 ぼくはふと先輩のことを思い、なんとなくネットで先輩の名前を検索してみた。同姓同名の人たちが何件かヒットしたが、その中でひとり、詩人の肩書を持つ人がいた。
 ぼくは少しドキドキしながら、その名前をタップした。すると、画面に先輩の顔写真が現れたのだ。
 ぼくは、その写真を眺めながら、ゆっくりとコーヒーを口に運んだ。
 先輩は、大きく太り、髪も薄くなっていた。しかし紛れもなく彼の写真であった。そして彼は、何冊か詩集も出していた。
 卒業後も、彼の詩に対する情熱は燃え続けていたのだ。

 ぼくは、もういっぱいコーヒーを頼み、時間をかけてそれを飲んだ。なにか濃密なものがぼくの中ですこしずつ溶解し始めたような気がした。カウンターを見やると、髭をはやしたマスターがそっとぼくに微笑みかけた。
 学生たちが何人か入ってきて、店の中が一気ににぎやかになる。マスターがアルコールランプに火をともし、サイフォンで丁寧にコーヒーをたてはじめた。
 この一瞬がまるでとても長い時間のように感じられた。

 店を出ると、もうあたりはすっかり暗くなっていた。会社に電話を入れようと携帯電話を手にし、なんとなく空を見上げるとそこに月が浮かんでいた。携帯電話を手にしたまま、ぼくはしばらく月を見上げた。白くて大きな月だった。

 何かがぼくに語りかけてきた。

 お前ならあの月をどんな言葉で表現する?



読んでいただいて、とてもうれしいです!