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【短編小説】オリオンと月の弦

間違った電車に乗ってしまった。

 車内がやけに空いている。なんだかおかしいなと気づいたときにはもう、扉は閉まったあとだった。
 急行列車に乗るはずだったのに、何かに心がとらわれていたようで、その時ホームに入ってきた各駅停車の列車に考えなしに乗り込んでしまったのだ。

 ーーー早く帰り着きたいときに限って・・・くそっ・・・

 仕事がちょうど繁忙期に入り、この1週間は毎日帰りが遅くなっていたのだ。
 明彦は小さく舌打ちをした。
 明彦はコートの内ポケットからスマートフォンを取り出し、最も早く帰ることができるルートを検索した。このまま数駅先の、急行が停まる駅で一旦降りて待つ方が良いのか、それとも次の駅で降りてひと駅引き返す方が良いのか。
 スマホの文字もかすんでよく見えないが、どうにか読み取ったところによると、次の駅から一旦引き返す方が少しだけ早いようだった。しかし、問題は引き返す電車に乗り継ぐまでの時間が短いことだった。次の駅で降り、逆方向の電車が到着するまで2分しかなかったのだ。

 次の駅で電車が停車すると、明彦ははやる気持ちとともに降りた。明彦の他に降りる乗客はおらず、また乗り込む乗客もまばらでしかなかった。
 その駅のホームは、驚くほど暗かった。
 間違った場所に来てしまったのではないか、という不安が彼を襲ったが、しかしそんなことよりもまず、引き返しの電車に乗らなくてはならないのだ。
 その駅にはホームの島が3つあった。

 ーーーどの島に自分が乗るべき電車が来るのだろうか?

 とりあえず階段を降りた。急がなくては間に合わない。階段の下は、広いホールのようになっていて、別の上に上がる階段が2本あった。どちらの階段を選ぶべきか。その選択は今の彼にとってはとても重要だった。
 端のほうにある階段の登り口に看板が貼られ、そこには「大阪方面」と書かれていた。まだ階上に電車がやってくる音はしていない。明彦は早足で階段を駆け上った。なんとか間に合ったよいうだ。
 彼はホームに立ち、ひと息ついてから周りを見渡した。
 そのホームは、どういうわけかさっきのホームよりも更に薄暗く、しかも明彦以外にだれひとり立っていなかった。そして向かいのホームには、何人かの人々が電車を待って立っていた。明彦は、不安とも後悔とも、あるいは諦めともつかぬ苦みを味わった。

 ーーーどうして俺はいつもこうなんだろう?

 明彦は、誰もいないホームに立ち尽くした。蛍光灯の弱々しい光が粒子となって降る薄闇に包まれたその場所は、深い森のような静けさを保ちながら、まるでそこだけが何者かによって切り抜かれた別世界のように感じられた。

 程なくして、反対側ホームに電車が入ってきた。それは、本来であれば明彦が乗り込み、戻るべきはずだった方面へ向かう各駅停車だった。明るく照らされた車両の中は、なんだか霧に包まれているようにかすんでいて、乗客が乗り込む姿がまるで映像を見ているかのように繰り広げられる。
 扉が閉まる音が聞こえ、電車が過ぎ去り、その後には無人のホームだけが取り残された。
 人のいなくなったホームは、ついさっきまで人の姿があったからか、余計に寂しいものに感じられた。
 明彦は振り返り、壁に貼り付けられた時刻表を眺めた。次の電車がくるのはまだ20分以上先であった。
 明彦は、手のひらを擦り合わせた。シャカシャカという乾いた音がした。背中にかいた汗が、徐々に冷たくなってきているのに気がついた。
 春はまだ遠かった。先週はどういうわけかまるで春のような暖かい陽気に包まれていたが、今週になり再び厳しい冬の気候に戻っていた。人々は何か大きなものに翻弄されるがままに、再び厚いコートに身を包まなければならなくなっていた。

 風が刺すように冷たかった。
 明彦は、途方に暮れたまま空を見上げた。どこか古い映画のワンシーンのように思えた。明彦はどの映画で見たのだろうか、とふと考えた。実際、このようなシーンをどこかで見たことがあるように感じたが、しかし思い出すことはできなかった。もしかしたら最初からそんな映画など、そしてそんなシーンなどなかったのかもしれない。
 無人になったホームでは時折、ポーン、ポーンという電子音が一定の間隔を置きながら鳴っている。それは、注意をしておかなければ聞き逃してしまいそうな音質で、しかしそれは確かに鳴り続けており、そしてそれは何らかの意味を持っているのだろうけれど、その意味するところは誰にも分からなかった。

 吐く息が白い。球形をした深い藍色の空の縁を、雨上がりの水気をたっぷりと吸った雲が囲んでいる。オリオン座の三つ星がちょうど真上にあった。オリオン座は、明彦が好きな星座のひとつだった。明彦はオリオンから降り注ぐ光を浴びながら、子どもの頃のことを思い浮かべた。友達の望遠鏡を覗き込み、そこに映る土星の美しさに驚いたこと。そしてその後、みんなで空に手を差しのべながら、懸命にUFOを呼んだことを。あのとき、たしかに光るものが夜空の一点に現れたと思うのだが、もしかしたらそれも幻だったのかもしれない。
 オリオン座から左の空には、今にもポキリと折れてしまいそうな三日月が浮かび、月の弓からまっすぐに弦を引いたところに、ひとつの惑星が淡く瞬き、たたずんでいた。
 どうしてかは分からないが、明彦はふと海を思った。そして、毎年のように家族で海へ旅行に行っていたことを思い出したのだ。
 家族3人で小さな車に乗り込んで、妻や娘の行きたいというところを色々と走り回ったものだった。ソフトクリームを食べ、水族館に行き、そしてわけもなく機嫌の悪くなった娘をなだめるために苦心したときもあった。眺めのいいハイウェイロードを走り、展望台で3人で気持ちのよい風にあたった。
 明彦と妻と娘、3人がともに好きだった場所が海辺だった。いろんな砂浜を、言葉少なにいつまでも歩き、娘が小さかった頃には波打ち際で砂と戯れた。海辺で彼らは、多くの時間を費やしたものだった。波の音は安らぎで、多くのものを洗い流してくれるようでもあったのだ。

 
 
 しかしながら、世界的に蔓延した謎の感染症の大流行によって、そのような彼らの生活は、旅の連続は損なわれてしまったのだった。
 人々は感染を恐れ、家に閉じこもることを強いられた。当然の如く、明彦たちも旅行を断念し、必要最低限の外出に留める暮らしを余儀なくされたのだった。
 感染症に対してのデマや不確かな噂があふれる日々がそれから数年続き、今になってようやくその感染症の正体もわかり始め、世の中はまるで、長い眠りから目を覚ましたかのように再び、感染症以前の時のように通常通り回り始めていたのだ。
 しかしながら、明彦の妻においては未だその恐怖は消え失せることも薄まることもなく、未だにその感染症に怯え続け、それは病的なまでに、あるいは悲しいほどに深く怯え続けているのだ。
 何が間違ってしまったのか、明彦には分からなかった。ただ、以前の生活に戻ることはもうないのかもしれないと、妻の顔、そして娘の顔を淡く思い浮かべた。すべてが淡い幻であり、儚い影ぼうしであるかのように思えた。

 ホームの下に埋め込まれた線路は蛍光灯の光を弱々しくはね返しながら、どこまでも続いていた。線路の色は茶色だと思い込んでいたのだが、実際は研ぎ澄まされたような銀色をしていた。

 家にたどり着いたときには、もう随分と遅い時間になっていた。窓からは明かりが漏れ、彼女たちの生活する気配というようなものが伝わってきた。
 明彦は深く息をついた。そして、夜空を仰いだ。
 空は大きく、深い藍色に染められていた。2階の屋根のちょうど真上あたりに、三つ星とともにオリオン座の星々が大きく広がっていた。そして西の空には、弦をギュッと強く引いたような細い月が浮かんでいた。
 光の粒子が、明彦の家へと静かに降り注ぎ、まるで優しく包みこんでいるかのようだった。明彦はその淡い光の粒に抱かれるように立ちすくみながら、その目から暖かい涙が溢れ出てくるのを抑えることができなかった。




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