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【ショートストーリー】モスグリーンのセーター

 空には、半月からやや膨らみ始めたくらいの月が、少し傾いだように浮かんでいる。
 湿気が多く、街並みや道路を走る車のライトが、細かい水滴のプリズムを通して見ているみたいに鮮やかだった。仕事帰りの夜だった。駅の階段を登り切った後、直之は電車のやわらかな、緑色のベルベッド生地でできたようなクッションの上に疲れた体を投げ出した。車内には化粧品と香水と汗と、それから何か食べ物のようなものが混じり合ったような匂いが漂っていた。いつもの匂いだ。外はもうすっかり暗くなっていた。
 オレンジ色の電車。そこはある意味彼の書斎でもあった。電車の中で本を読むことが彼の最大の――大げさではない――楽しみだった。十五年もの間、毎日電車に揺られながら本を読み続けた。これはある意味一つの歴史であるともいえるのではないか、と彼は思う。
 オレンジ色の車体の車両が、スムーズに、そして機械的な音を響かせながら動き出した。
 彼はひとつため息をついた後、重くて黒い鞄の中から、スティーブン・キングのホラー小説の文庫本を抜き出した。この小さな、しかし分厚くて存在感のある一冊の本を開くとき、一種の幸福感を覚えるのだ。長い小説は、終わりのない何か永遠のようなものを彼に意識させるのだ。
 電車に乗り始めてしばらくたった時――小説の中では、モンスターに操られた人間が少年たちを狂ったように襲っているところだった――電車はある大きめの駅に停車した。自動扉が開き、多くの乗客が降車し、そして少しの乗客が新たに乗り込んできた。扉が閉まり、電車が再び動き出したとき、彼は何気なく前の座席に目をやった。そこには魅力的なひとりの女性が足を組んで座っていた。襟のところがVの字に開いたモスグリーンのサマーセーターに、色のかなり褪せたブルージーンズを履いている。靴はいたってカジュアルなキャンバス地のスニーカーだ。その服は彼女にとてもよく似合っていて、彼女は相変わらずとても素敵だった。それは、かつて直之が彼女と同じ職場にいた頃につき合っていた渚紗だった。
 自分の目の前に彼が座っているのに気が付くと、渚紗は立ち上がり、彼の隣に腰かけてきたのだ。
 彼女は、彼がよく知っている少し大げさな笑顔を作りながら、久しぶりね、と言った。
 彼も、やあ、久しぶり、と彼女に応えた。そして、どうしてたの? と尋ねた。
 しかし彼女は彼の質問には答えず、スマートフォンを左手に載せ、右手の人差し指で画面をいじりだした。白い指が長くてきれいだった。爪もまるでついさっき手入れしたばかりだというように、きれいに切りそろえられている。マニキュアやネイルでごまかしたりしない、健康的な美しさがあった。スマートフォンの画面を見ながら、彼女は、やっぱりな、と言って顔をあげた。
 「思った通りだわ。あなたなんかに会うなんてどんな日かと思ったけど、今日の山羊座の運勢は10位だってさ。」
 直之が膝の上に持っていたスティーブン・キングに視線を移すと、渚紗は彼の目の前にスマートフォンの画面を差し出した。確かに山羊座は10位になっていた。
 相変わらずだね、君は、と彼は言った。
 「でもほら、あなたのしし座は3位になってる。よかったわね。」
 そう言って、彼女は少し居心地が悪そうに足を組み替えた。
 彼女のジーンズは、比較的柔らかそうで、少しゆったりとしていて、適度にラフな感じだった。そういえば彼女はあまり締め付けられるような服装が嫌いだったことを思いだした。いつか冬の寒い日、襟の大きくあいたセーターを着ている彼女に、マフラーをしないのか?、と聞いたことがあった。そのとき彼女は、マフラーは首が締め付けられて苦しくなってしまう気がするからしない、と言っていた。直之がそんなことを目を細めながら思い返していると、電車の中でアナウンスが流れた。どこか別の路線で信号の故障があって、電車が停まっているようだった。
 「また信号トラブルか? 昨日も同じようなことがあったし、最近多いよな。」
 直之は言った。
 「そうなんだ」彼女は言い、それから「今何を読んでいるの?」と、別に興味がなさそうな感じで聞いた。
 ホラー小説さ、と彼は答えた。
 「あなたは昔から本を読むのが好きだったものね」彼女は言った。「でもホラー小説なんて面白いの? 私は苦手だけど。」
 「面白いさ。最近気づいたんだけど、ぼくはこういうのも好きだったみたいなんだ。新しい発見だよ。」
 言って彼はその文庫本を胸の前でひらひらさせた。彼女は、ふうん、と何か考えを巡らしているような感じで頭をゆっくり動かした。
 「そうだ、私あなたに借りっぱなしになってる本があったわよね。返さなくちゃいけないかな?」
 彼は、もういいよ、忘れてたし、と答えた。
 「読んだの?」
 「ええ。ついこないだ読んだわ」彼女は言った。「私も最近は本を読むようになったのよ。」
 「へぇ」
 渚紗に貸した本は、直之が高校生だったころに好きだったアメリカ作家の本だった。でも、彼女にはちょっとつまらなかったかもしれないな、と思っていた。忘れたふりをしたけれど、実はずっと覚えていた、というか忘れることができなかった。
 「そうだ、あなた昔、私の肩の上にのってたアオムシをそっと取ってくれたことあったよね? 覚えてる?」
 そう言って彼女はちょっと笑った。
 「ああ、そんなこともあったかなぁ?」
 直之は、その時のことをはっきりと記憶していた。それは渚紗とは職場の同僚だったけど、まだお互いに親しくなる前の頃の話だ。丸々と太ったアオムシが、斜め後ろに座っていた彼女の肩の上をもぞもぞと這っていたのだ。
 「あの時、君は今日と同じようなモスグリーンの服を着ていたね。」
 彼は言った。彼女は、よくそんな服の色まで覚えているわね、と驚いた。
 「アオムシと服が同じ系統の色をしていたのをよく覚えていたからね。」
 と、彼は言った。
 「多分、あの日の昼休みが原因ね。その日、私は公園の大きなくすの木の下で、アミたちとサンドイッチを食べてたんだよね。ほら、まほろばのたまごサンド。頬張ったら、黄色い卵がパンからはみ出してくるくらいのやつで、すごくおいしいの。いい陽気で、青空が綺麗だったなぁ。その時にアオムシが私のところに落ちてきたんだよね、きっと」彼女は言った。「でもね、どういうわけかあの時初めて、私はあなたのことを意識したんだ思う」
 「ぼくがアオムシを取ってあげた時に?」
 「そう。多分ね。」

 直之が降りる駅に着くにはまだもう少し電車に乗っていなければならなかった。そして、どこかの信号トラブルが影響して、彼たちの電車も小刻みに動いたり止まったりを繰り返している。
 「ぼくはまだ、ときどき君の夢を見るんだ」
 彼は言った。彼女は、そう? と小さく、床についた薄い染みのようなものを見つめながら答えた。
 「夢の中で、たいていは君はそっぽを向いてるんだけれどもね、でもぼくは、今度こそは君ともう一度親密になれる、というか君が笑ってくれるって期待している。何故だかいつもそんな夢なんだけどもね」
 彼女は何も言わず、ただプラスチックでできた面のような笑みを浮かべていた。Vネックの首に金色の控えめなネックレスがかかっているのが見えた。彼女が身に着けると、どんなものでも素敵なものに見えてしまうんだな、と彼は思った。
 「君は今、何をしてるんだい?」
 彼は聞いた。
 彼女は、母親と一緒に小さな食堂をやっている、と言った。
 「ランチとか、おいしいコーヒーを出したり、オーガニックにこだわったりしているの」
 彼女は、言った。
 「料理が好きだったもんな。とても君らしいよ」
 彼は言った。
 「でも、もう5年になるんだね、あなたと別れて。私もどうしてか最近あなたのことをよく考えてしまうの。どうであれ、あなたは私という本の数ページを占めているのは間違いないことだものね。」
 直之は何も言えず、ただ頷いた。直之の方でも、渚紗が自分の一部として、自分の中のどこか深くて柔らかい特別な場所にしっかりと息づいていると感じていたのだ。その場所を思い起こすとき、直之はいつも同じ風景を思い描いた。思い描くというより、意識が自分の中に入り込んで、そしてその場所にたどり着くといった感じだった。そこは、柔らかい陽光のさす、大きなクスノキの下の小さな優しい木陰。透き通った爽やかな風がなでるように絶え間なく吹いて、柔らかな緑の草を揺らしている。クスノキの下の木漏れ日の中には、壊れやすい殻をまとった卵のような物が、まるで何かから守られるかのように長い草の葉の中に半分埋まるように置かれているのだった。
 
 停まっていた電車が大きなきしむような音をあげながら、再びゆっくりと動き出した。まるで停止していた時間が再び音を立てて回りだしたかのようだった。
 「ねえ、私たちって何が原因で別れたんだったっけ?」
 渚紗は言った。直之は少しの間考えて、首を振った。
 「私、たぶんあなたにとって、とてもめんどくさい女になってたよね」
 直之はだまって、彼女のきれいに切りそろえられた指の爪を見つめた。それは彼女の細い指先を、包み込むようにして美しく弧を描いていた。
 電車はまるで、これまでの遅れを取り戻すかのようにスピードを上げはじめていた。窓の外の街の明かりが流れるように過ぎ去っていく。
 直之は言った。
 「あの頃ぼくはよく想像してたんだ。君と長い時間をかけて船に乗って世界中を旅して周るのをね。中国、インド、スエズ運河、エジプト、喜望峰、スペイン、ロシア、アラスカ、アルゼンチン・・・とにかく色んな国をまわるんだ。」
 彼女はふうっと息を吐き、首を下から上にゆっくりと動かした。何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。
 「思い返してみると」彼は、彼女と同じ職場で働いていたときのことを思い出しながら言った。「あのときぼくが作った書類にミスが見つかって、それをぼくら二人で修正しようとしたことがあったよね。」
 「ああ、あったわね。」
 彼女は言って、そして顔をゆがめた。直之は彼女の肘の内側にできたセーターのひだを見つめた。
 「あの時、私は精神的にものすごく大変な想いをしたわ。そして私はその時のあなたの頑固さがとてもいやだった。」
 「君はまだぼくのことを責めているのかい?」
 彼は言った。彼女は、まさか、と言った。
 「ただ、そんなあなたを好きになろうって思ったけど、できなかっただけ。でもそれが理由かどうかなんて、今となってはもうわからない・・・しょせんそんなものなのよ。」
 そう言って彼女は軽く肩をすくめて見せた。

 窓の外の景色から街の明かりが消え、濃紺の闇が広がった。電車が大きな川の上にさしかかり、わずかに速度を落としながら橋の上を走行しはじめた。鉄橋を渡る振動と音がひときわ大きく車内に響いている。
 彼女は、手に持ち続けていたスマートフォンをバッグににしまった。
 そして、私、もう行くね、と言った。
 「久しぶりにあなたと話せてよかった。」
 彼女は、立ち上がって、彼に向って軽く手を振った。
 「結婚したんだね?」
 と、彼は立ち去ろうとする彼女に向って言った。
 ほんの一瞬の沈黙があった。そして、そう、と短く言って彼女はうなずいた。それから、じゃあね、ともう一度手を振って、彼女はゆっくりと隣の車両へと移って行った。なんだか、遠ざかっていくセーターの背中のしわでさえ綺麗に思えた。車両の連結部分を過ぎ、彼女の後ろから静かに扉がスライドして閉まると、彼女の姿は見えなくなった。
 
 電車は、橋の上で再び停車した。そしてお詫びのアナウンスがまた繰り返された。
 直之は、何気なく後ろの窓を振り返った。
 背後の濃紺の空には、黄色がかった月が浮かんでいた。それはまるで、黒猫が闇の中でうずくまりながら、片目だけ見開いているかのような、そんな月だった。




読んでいただいて、とてもうれしいです!