見出し画像

ジェンダー問題が難しい理由

以前、このようなnoteをアップしました。

内容は、2002年に出版された『ほんとうのアフガニスタン』という本からの引用でした。

パキスタンの州都ペシャワール市を拠点に、らい病(ハンセン病)とアフガニスタン難民の診療に心身をささげてきた中村哲さんという医師のことが書かれた本です。

その本で、氏の講演会場のQ&Aを紹介している章があります。書くのが遅れましたが、前述のnoteの内容は

(アフガニスタンには)親日的な人が多いという話でしたが、日本からは遠い国のイメージがあって互いに親しい交流がなかったように思います。どうして日本に好意を持ってくれるのでしょうか。

という質問への回答だったのです。

今回は、次の質問に対する回答を紹介します。タイトルの「ジェンダー問題の難しさ」のヒントになると思いましたので。

欧米のボランティアやNGOが入っていくときに、女性解放や人権意識といった外からの価値観を持っていくと思いますが、現地の人はこれをどう受け止めているでしょうか。

これは反感を持って受け止めている。
それははっきりしている。

都市の一部に喜ぶ人もいるかもしれないが、
「女性解放」だなんて、普通のありふれた主婦、そのへんの娘さんたちにとっては、大きなお世話としか映らないでしょう。

「そんなたいそうなことを言うあなたたちの国のほうが凌辱事件も多いんじゃないですか」と言うでしょう。

アフガンの人たちは、非常にプライドが高い人たちだということがいえる。

だから、沖縄で起きたような暴行事件は、まずアフガニスタンでは起きない。

娘を暴行されると、その犯人を家族の者が必ず制裁し、殺す。

復讐の掟でそれがむしろ義務のように認められているから。日本みたいに、泣き寝入りするということは絶対ない。

「教育」についても同様なことが言える。

<中略>

女性にしてもアフガンの女性は、一昔前の日本と似ている。日本でも昔は男が威張っていた。

けれども、そのじつは威張ってもらわせておったというほうが正しい。

陰でじっと女性が、内助の功というのだが、夫婦二人で一人分の仕事をしていた。女性は決して表に出なかった。

日本民族をここまで支えてきたのは、ほんとうは女たちの力であった。

それを男たちは調子に乗って威張りくさったがために、昨今のようなツマラナイ男になってしまった。

現地でも事情は似ていて、一見、女性が押さえつけられているように見えるが、家庭の中にあって、じっとこの保守的な社会を支えているのは女性。

たとえば、復讐の掟にしても、人殺しなんて、だれでも本当は気が進まない。

概して男というものは妥協的で、「それをやらなくたって話し合いで解決して」というところを、奥さんに「あんた、それでも男か」と言われ、男気を出して、相手を撃ちに行くということもままある。

夫を殺された妻は、自分の子供を復讐要員として使う。小さいときから「あなたは仇をとるために生まれてきたんだ」と言い聞かせて育てる。

鉄砲を撃てるような年頃になると、ある日、敵のところに行ってとどめを刺すということも、ごく普通にある話。

こうして保守的なアフガン社会を底辺でしっかりと支えているのは女性。

社会自身が変化して、女性の役割が変化してくる中で、西洋的な価値観というのが、ぼちぼち受け入れられてくるようにもなってきたが、それはごく限られた都市空間。

たとい表層を洋装にしても、本質的な部分では不変不易なものはなくならない。また、根こそぎ消したら文化も消滅する。

私は田舎で育ったので、そのへんの事情はよくわかる。

うちの母は父よりも家の中では強くて、しかし外では「お父さん」といって立てておったという姿を見てみると、やはり日本の男性社会を支えていたのは女だった、と言わざるをえない面もあると思う。

それがいいとか悪いとかじゃなくて、そういうルールだった。

もちろん、そのルールに収まりきれぬ人はいて、それはそれで娑婆とは異なる生き方もあったでしょう。

しかし、全体としては、そういう固定した役割で女性もまた保護されるというスタイル。

⬆このような文章を読むと、性別固定役割に何の疑いも持たず、むしろ大絶賛する人たちがいることも頷けます⬇

でもそれが通用したのは、アラフォーの私たちより少し上の世代まで、ある有名な占い師がご存命でテレビですごく幅をきかせていた時までだと思うのです。

私の同級生で保守的な良妻賢母タイプだった子が、結婚生活でうまくいかなくて早くに離婚してしまったのは、象徴的と言えるかもしれません⬇

全ての人にとっての最適解はないにしても、時代と自分を見つめて、誰もが主体的に考えながら生き方を模索していくことは必要と言えそうです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?