極限の美学は至極シンプルなモノである。




「なんちゅう美しさ!」

微積分に魅せられて

一瞬で虜になった。

それが、自分の数学が好きになった決定的なポイントだった。

自分にとって、微積分は「美学」でしかない。






当たり前だけど、人によって持っている「美学」は違う。

「何を以って美しいと思うのか」

「具体的にどこに美しさを感じるのか」

「そもそもその人にとって”美しい”とはなにか」







自分の話をすれば

「美学」とは「極限までにシンプルで洗練されているもの」

そう思っている。

ちょっと職人的な感覚を「美学」には持っている。

ほんとうに個人的な価値観だけど

「本当に難しいモノというのは、実は物凄くシンプルなモノ」

だと思っている。

もう少しだけ言えば

「物凄くシンプルなモノが、究極に難しいモノ」だとも思っている。





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自分が何故ダンスをやっていた時に「難しすぎる」と言われていたか?

実はその理由を、自分だけはよく知っていた。



①「徹底的に”ダンス”にこだわったから」


普通、ダンスを「人に習う」と

「このジャンルの音楽はこれでこういう”動き”だから」と一般的には習う。

習うほうの人間も「こういう音楽でこういう”動き”なんだ」と

何も考えることなく、ただそう把握する。

そして、そこで習った”動き”が身体に沁みついたことを

「”ダンス”が出来た」と認識する。

でも、自分の場合は「ほぼ独学」だからか?

根本的に”動き”を音楽に合わせていくというやり方をしない。

というか”動き”と”ダンス”は別物なので

根本的に”動き”という認識すらもっていない。

”動き”というのは文字通り「身体を動かしている状態」という意味で

「音楽とはお構いなしにただ身体が動いている状態」だと思っている。

それは自分は、”ダンス”ではないと思っている。

その”ダンス”とは

「身体が動く・あるいは止まるの【連続性のある】音楽表現」

だと超個人的には思っている。

なので、むちゃくちゃ細かい玄人向けの話をすると

”動き”として捉えると、

たしかに「止まっている(動いていない)ように見える」状態でも

”ダンス”になると

「【連続性のある】の中での間合いで動いていない」だけになる。

あくまでも【連続性のある】中での前後関係によって静止が成り立つ。

それが”動き”と”ダンス”の違い。

ここはクソ細かい話なので

この話が理解できる人間は非常に少ないと思うけど

むちゃくちゃ深いところまで掘り下げている人間なら

分野問わず分かってくれると思う。

それで、一般的に言われる「人に習う」ことで

一般的な”動き”を習得する⇒それに音楽をつける

それを以って「自分のクリエイションとする」

これが一般的だと言われるやり方だけど

自分は完全に真逆のやり方でこれも「ほぼ独学」だからか?

自分にはどういう音楽が合うのか⇒音楽を”ダンス”で表現する

という手法をずっと取ってきた。

だから、一般的に「人に習ってきた」人間のセオリーは

自分には一切通用しない。

そもそもの根本的に考え方が違いすぎる

だから「難しい」と感じる。




②「至極シンプルなモノを徹底的に掘り下げたから」

自分の現役時代は、「とにかく技術にこだわった女」だった。

そして、「ほぼ独学」なので一般的なセオリーが通用しない女でもあった。

だから、見る人が見れば「何故あんなダンスをするのか?」ということすら

理解できない人間も沢山いた。

特に、「技術」に関してはそういう言われ方をしていた。

「なにをやっているかさっぱり分からないけれど絶妙にマッチする」

「なんだかとてつもなく難しく見える」

だから「どうやったらそんなことが出来るのか?」と聞きに来る人間も数多くいたけど

いつも決まって「基礎の組み合わせと魅せ方」としか言わなかった。

それがすべてだからだ。

それ以上の答えもない、それ以下の答えもない

それがすべて。

一見クソ難しそうに見えることでも、ひとつひとつ分解してよく見ると

全て「至極シンプルなモノ」になる。

その組み合わせのセンスと魅せ方。

ただそれだけだと、自分は思ってきた。

だからこそ「徹底的に基礎を掘り下げる」ことだけは怠らなかった。

そしてやればやるほど

「至極シンプルな基礎こそ、最も難しく最も奥深い」

「その至極シンプルなものを極めた時、はじめて洗練される」

その結論に至った。

その「至極シンプルなモノ」を「洗練されたモノ」にするために

こんなことを毎日考えながら練習していた。

・ダンスを奏でる自分の身体はどうなっているのか?

・現状の身体の可動域はどこまでか?
 またこの先その可動域はどこまで広がる可能性があるのか?

・その身体をどういう魅せ方をすればより魅せることができるか?

・自分がその身体を持って表現できる音楽はどういう音楽なのか?

・その音楽と自分の身体をもってして、何を表現するのか?

・その表現するにあたって自分の「表現力=技術力」はどこまであるのか?

・その技術力を高めるにはどうしたらいいのか?

【この無数にある組み合わせを自分でどうするのか?】

何事も同じだと思うけど、ただやみくもにやっても上達するはずがない。

ひとつひとつ考えながらやってこそ、初めて実のあるモノになる。

「なにをやっているかさっぱり分からないけれど絶妙にマッチする」

それはすべて

「至極シンプルなものを極めて洗練されたモノにした」

その先にある。




③「徹底的に自分主体だから」

”ダンス”をする際に

「誰でも出来るならロボットがやればいい」と昔からずっと思っていた。

日本人は基本的に「統一性のある揃ったもの」

数学でいうと「∑のようなもの」を好む傾向がある。

一糸乱れぬ美しさ。

だから様式美のようなフォーメーションで”ダンス”をするのであれば

ロボットが一番完成度が高い。

魅せ方によっては幾何学模様のようにも見えるだろうとも思う。

でも「どうして不完全な人間がやるのか?」

先の記事にも書いたけど

自分は他人と共作することに関しては悉く不向きだったので

結局、現役の後半は完全にソロに転向した。

その時によくこんなことを考えていた。

「もしも、不完全な人間にやることに意味があるのならば
      最終的にはすべてが”自分であること”に帰結するのでは?」

そして出た自分の結論は

「”自分”が”ダンス”をすることにしか、意味がない」

ソロ転向してからは、当たり前かもしれないけど

以前とはケタ違いに徹底的に”自分であること”にこだわった。

だから、ソロ転向後の自分の”ダンス”は誰にも出来るはずがなく

自分でしか成立しない。

そこに「難しさ」を感じた人間もいたらしい。


①「徹底的に”ダンス”にこだわったから」

②「至極シンプルなモノを徹底的に掘り下げたから」

③「徹底的に自分主体だから」


これが自分が「難しい」と言われた正体である。

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自分は元来めんどくさいことを好む人間ではあるけれど

それは「クソ難しいことを漠然と好んでいる」わけではなく

その根底には

上に書いたようなダンスで得た答えがある。

「めんどくさければめんどくさいほど、最後は極限にシンプルになる」

結局、自分の美学というのは

「至極シンプルなものを極めて洗練されたモノにする」ところにある。

自分が

「微積分とは、stringsの極限美学である」と言う理由。

それは、ダンスと同じ【連続性のある】もので

【連続性のある】=strings

その極限美学はやはり、最後は洗練されたモノになる。

その美しさに魅せられたんだろうな、

自分の美学は、いつも一貫している。

微積分は美しい。






拙い文章お読みいただきありがとうございました。





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