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【小説】 透明の家 《第三話 前編》



【802ーA号室:三船香奈】

 


ギュイッギュイッギュイッギュイッ。


コルクに螺旋状の金属が食い込んでいく。

 この音がするときは、決まって何かしらのお祝いをするときだった。兄が大手メーカーに就職が決まった日、家族みんなで。私が初めて担当したプロジェクトが成功した日の夜、仲間と共に。大学時代の親友の結婚が決まったとき、友人たちと。そして、私が自分の人生を決めた、あの日。

 どれもかけがえのない思い出だった。だから私は、今回もこの音を聞けたことが嬉しくてたまらなかった。

 ぐぐっと力を込めて引っ張ると、中の空気圧でコルクが引き込まれそうになる。負けじとそのまま引っ張り出してみると、ポンッという軽やかな音を立てて栓が抜けた。

「北条!引っ越しおめでとう!」

「きゃー!ありがとうございます!」

 抜けた瞬間に掲げた瓶に、まだ何も入っていないワイングラスをコツンとぶつけて、北条は乾杯をするフリをした。子供のように目をギュッと中央に寄せて、しわくちゃになりながら喜んでいる。

 主役のグラスが空っぽでは格好がつかないので、急いでワインを注いだ。グラスの中でワインが身を翻すたびに、爽やかな香りが漂う。今日の日のために奮発して買ってきたが、どうやら良い買い物ができたらしい。

「いい香りですね」

「ね!味も飲みやすし、料理にも合うと思うよ」

 お気に入りの白い木製のテーブルに並んだ、色とりどりの料理に目を向ける。テーブルには私が実施に食べてみて美味しいと感じたおすすめのデリと、北条が持ってきてくれた手作りの料理が並んでいた。彼女はとても料理が上手で、ここに引っ越す前から私によくご馳走をしてくれていた。

「さすが北条。今日もすごく美味しそうなものばかり!」

「へへへ!三船さん、いつも美味しそうに食べてくれるんで、作り甲斐があります!」

「ほんと?あ、でも、今日の主役なのにわざわざ作らせちゃって、ごめんね」

「そんな!私、料理するの大好きなんで!それに、ワインの他に、こんなご馳走まで用意していただいて、私の方こそ本当にありがとうございます」

「いえいえ、本日は北条様のお引っ越し祝いなので当然ございます!」

 突然の敬語に、彼女が吹き出した。ここしばらく見られていなかった彼女の明るい表情に、私は少しホッとした。

 北条が私と同じマンションに引っ越してきたのは、つい先月のことだった。

 彼女は会社の後輩の一人で、入社してからずっと私の下で働いてくれている。プライベートでも度々一緒に遊んでいるため、仕事の枠を越えた友人のひとりだと私は思っている。そんな彼女に、この施設への入居を勧めたのは私だった。

「改めまして、402ーA号室に引っ越してまいりました、北条です。よろしくお願いします。こちら、お近づきの印にどうぞ」

 北条はこちらに向き直り、社会人然とした表情で包みを差し出した。手にしていた取り分け用の小皿をテーブルに置いて、同じように向き直り、「ご丁寧にどうも。」と、丁重に受け取る。    

 しかし、真面目な空気の面白さに耐えきれず、三秒後にはお互いに笑い出してしまった。箸が転んでもおかしい年頃なんて、とうの昔に過ぎている。なのに、北条といるといつもこんな調子で笑いの沸点がガクンッと下がるのだ。

「本当は氷川さんにもお渡ししたかったんですが……」

「今日、氷川さん出張なんだって。後で渡しておこうか?」

「お願いできますか?」

「オッケー」

 氷川さんというのは、この隣の部屋に住む私の配偶者だ。お互いに仕事が忙しく、週に数回顔を合わせるかどうかという程度にしか会っていない。

 私たちはテーブルに並ぶ料理から、それぞれ好きなものを自分のお皿に盛り付けた。よほどお腹が空いていたのか、お互いの手元に料理の山が出来上がっている。細く繊細なグラスの柄を指で摘み、目線の高さまで掲げる。

「おめでとう!」

「ありがとうございます!」

 乾杯の声を上げると、そのままワインを一口含んだ。舌の上にすっきりとした酸味と香りが広がる。まだたった一口だけなのに、心がフワッと浮き上がるようだ。北条は「美味しい!」とか「どうやって作るんだろう、これ」とか言いながら、料理を頬張っている。どうやらお気に召していただけたようだ。私も安心してご相伴に預かることにした。

「あ~、美味しい!」

「ん~!北条が持ってきてくれたこのアヒージョ、最高!」

「やった!こっちのアクアパッツァ も絶品ですよ!」

「今日は何も考えずに食べまくるぞぉ!」

「おー!」

 日頃、カロリーや糖質を計算して節制しながら食事をとっている私たちは、ここぞとばかりに食べて飲んだ。外聞を気にせず気楽に飲んでいたためか、いつもより酔いの回りが早い。そんなテンションで数時間飲み続けた私たちは、いつの間にかワインの空き瓶が並んだテーブルに突っ伏していた。

「あは~、しあわせ~……」

「好きなもの食べて、飲んで、騒いで……」

「これこそ理想の生活」

「自堕落だなぁ」

「三船さんもですよ」

「だねぇ」

 ふへへ……と気の抜けた笑い声を発しながら、手酌でワインを注ぐ。グラスの近くに顔を置いていたせいで、跳ね返った滴が顔にかかった。こんなにみっともない姿、会社のみんなには見せられない。北条も会社の人ではあるけれど、彼女も彼女でぐでぐでになっているので『おあいこ』だ。

 最後の一滴がグラスに落ちるのを見届けた後、ずっと疑問に思っていたことを北条に尋ねてみた。

「北条」

「はぁい?」

「……私さ、私の人生に北条を巻き込んでない?」

「はぁい?」

 聞いているのかいないのか分からない返答をして、北条は顔はこっちを向けた。目が通常の三分の一しか開いていない。

「北条はいい子だし、もしかしたらこれから良い出会いがあったかもしれないじゃない?」

「えぇ~?」

「その可能性を、私が……」

 潰してしまったのではないか。

 そんな考えがずっと胸につっかえていた。

 この施設を紹介したのは、確かに北条のことを思っての事だった。だけど、気心の知れた友達と一緒にいたいという私自身のわがままがあったのも事実だ。私が誘わなければ、彼女には別の未来があったかもしれない。そう考えると、自分の行動が正しかったのかどうか、たまらなく不安になる。

 北条は相変わらず聞いているのかいないのか分からない、ふにゃふにゃした顔をしている。空になっていることに気付いていないのか、何も入っていないグラスを一気に飲み干す素振りをすると、

「私はぁ~、自分でぇえ、ここに来るってぇ、決めたんですぅ~!」

と、不貞腐れた子どものように「イィ~!」と歯を剥き出しにされた。あまりにも迫力に欠けた威嚇に面食らっていた私を

「確かに三船さんはぁ、私の憧れですけどねぇ?それだけで人生決めるほど軽率じゃないですよぉ!」
「ごめん、ごめん」

「三船さんはぁ、頭良くてぇ優秀でぇ優しくてぇ綺麗でぇ、男よりずっと格好良くてぇ、みんなの憧れなんですぅ~」

「……うん?」

「だからぁ!三船さんはぁ!そのままで良いんです!」

「うん?」

 何の話をしているんだったかと混乱している私をよそに、北条はそのまま寝息を立て始めた。話している間に寝てしまうなんて、本当に子どもみたいだ。

「……ありがとう、北条。これからもよろしく」

 私はもう聞こえないであろう彼女の背中に静かにブランケットを掛け、この愛すべき後輩に向けて深々と頭を下げた。



                 *



「今回の社内コンペは、三船の案に決まった」


 みんなが立ち並ぶ朝礼中、部長からそう発表された。周りからは拍手が沸き立ち、祝福の声が聞こえる。

「前回と同じように、メンバーの選出とかは全部お前に任せるから」

「ありがとうございます。精一杯頑張ります」

「じゃ、よろしく~」

 片手をひらひらとさせて部屋を出ていく部長を、頭を下げて見送ったあと、一人小さくガッツポーズを取った。今まで何度もこのやりとりを経験しているが、どれだけ回数を重ねてもこの瞬間の嬉しさは色褪せることはない。

 どんなメンバーとどんなスケジュールで進めて行こうか。
私はこの、『計画を練っている時間』がとても好きだ。
スタートを自分で作り上げているという、この感覚がたまらない。
なので、案が採用となると全てを一任してくれる部長が上司であるということも、私にとってはとても良い環境だった。私がここまで成長できたのも、部長の放任主義のお陰かもしれない。

 私はしばらく経った後、部長にひとこと日頃のお礼を言おうと席を立ち、部長がよくいる喫煙所に向かった。予想通り、部長は透明なガラスに囲まれた喫煙所の中にいた。よく見ると、部長の同期の人と話をしているようだ。邪魔をしては悪いと思い、喫煙所の先を曲がったところにある休憩所に腰をかけて待っていると、二人が話ながら出てきた。

「いやぁ、しっかし、お前も大変だなぁ」

「全くだよ。責任取るの俺だぜぇ?」

「三船って、なんかめちゃくちゃ張り切ってるよな」

「本当にな。女なんだから、もっと気楽にやりゃいいのに」

「部下……しかも女の方が優秀って、お前の立つ瀬がなくなるって気づかないんかね」

「だからずっと独身だったんだろ」

「なるほどな」

 二人の愉快そうな笑い声は、私とは反対側に向かって遠ざかっていった。その声は、鐘のように私の頭のなかでぐわんぐわんと鳴り響き、私の動きを封じた。頭の隅に追いやっていた嫌な記憶が一気に蘇る。



「俺、香奈といると自分が惨めに思えてくる」

 


昔、付き合っていた人たちに言われた言葉だ。
付き合っていた人『たち』といったのは、そう言われたのが一度や二度じゃなかったからだ。

 理由を聞くと、大体は似たり寄ったりな回答だった。
自分よりいい大学を出ているから、自分より年収が多いから、自分より身長が高いから、自分より仕事ができるから、自分より楽しそうだから。

 私から見下されているとは思っていないが、ただただ自分が惨めになるのだ、と。

 そう聞かされた時、最初はショックだった。

 勉強を頑張っていたのは自分の目標のためだし、仕事が楽しかったのは事実だ。お給料が上がれば、二人でいろいろなところに遊びにいったり、美味しいものを食べたりできると思い頑張っていた。しかし、彼らはそれが嫌だったらしい。

 自分より年収の高い人と付き合っても、やはり何かしらが引っかかるらしく、結局は同じようなことを言われてしまう。

 私にだって苦手なことはあるし、人並みにコンプレックスだって持っている。しかし、なぜかそれには誰も目を向けてくれなかった。

 あまりにもそんなことが続いたので、これは私に原因があるのだと思い、今度はできるかぎりお淑やかにしてみた。

 仕事や年収の話を避け、プライベートも隠しながら物静かな雰囲気を醸し出す。深い話をすることもなく、ただボーッと隣にいるだけの存在になってしまったが、当時の彼は満足そうだった。結局、それは私の方が我慢できなくなって別れてしまった。そんなことを繰り返していくうちに、私は男性と親しくなることを次第に諦めていった。



「男を立てられない女は嫌われる」



 母が私に向かってよく言い放つ言葉だ。

 男は自分より弱い女性を好きになる、と。経済面でも男より稼ぎが少なく、身体的にも小柄な女性を守りたくなるんだ、と母は得意げに言うのだ。

 そういう話をしている時の母の目には、どこか仄暗い憎しみが滲んでいる。まるで鬼の首を取ったかのようにギラギラと輝く瞳を向けられると、私はとっさに目を逸らしてしまうのだ。

 そんな思い出たちがどろりと漏れ出し、脳全体に真っ黒な膜を張る。
目の前が一瞬だけ闇に包まれたが、はっと我に帰って顔を上げた。今日はまだ始まったばかりだ。嫌なことを思い出したからといって、泣いたり休んだりはしていられない。

 私はそばに立っている自販機にお金を入れ、迷わずブラックコーヒーのボタンを押した。がこんっ、と音を立てて落ちてきたものを間髪入れずに拾い上げ、一気にそれを飲み干す。

「よしっ!」

 自分の両頬を音が出るほどの勢いで叩き、自席へと向かった。

 こういうところが可愛くないんだろうな、という思いは、空き缶と共にゴミ箱に捨てた。


                 *


「三船様、おかえりなさいませ。本日は遅いお帰りですね」


 その日、帰宅したのは日付が変わる少し前になってからだった。

 朝のショックな出来事を振り払おうと仕事に専念したところまでは良かった。しかし、熱が入りすぎて時間が過ぎるのを忘れてしまったらしい。深海さんに出迎えられたことで安堵したのか、それまで感じていなかった疲労が、どっと押し寄せてくる。

「ただいま帰りました。はぁ……、疲れた」

「大丈夫ですか?お部屋までお送りいたしましょうか?」

「いえ、大丈夫です。なんか、安心したら気が抜けちゃって」

「あまり無理はなさらないでくださいね」

「ふふ、ありがとうございます」


 深海さんの気遣いに心が暖かくなるのを感じながら、自室へと向かう。そういえば、あの人、いつもエントランスにいるな。そんなことを考えながらエレベーターから降りると、玄関の前に人がいるのが見えた。相手もこちらに気づいたらしく、軽く会釈をする。



「……お疲れ様です」



 抑揚のない声。氷川さんだ。

 

 氷川さんはここで出会った私のパートナーであり、隣人だ。

 

 最初に彼と出会った時、私は本当にこの人とやっていけるかどうか不安だった。軽く世間話でもと会話を振ってみるものの、ひとことふたことで会話が終わってしまうのだ。そのことは深海さんから事前に聞いていたが、それでも実際に体験してみると、沈黙の時間がとても重苦しかった。
 
 さいわい、事務連絡のような会話にはきちんと応じてくれるし、問題を提起すれば話し合いには応じてくれる。そういったことを話している時の氷川さんは、理路整然としていてとても分かりやすいのだ。

 彼が仕事相手だったら、きっと楽しいのだろうな。そんなことを考えながら、私たちは隣人として程よい距離感を保ちながら生活しているのだ。


「出張、お疲れ様でした」


 にっと笑って見せたが、氷川さんは無表情のまま頭を軽く下げただけだった。玄関のドアを開くと、「お先にどうぞ」と言わんばかりに、手で入室を促す。まるでレディーファーストの仕草のようにも見えるが、これもただ単に、エレベーターに乗り合わせた人に降りる順番を譲るような意味しかないことを私は知っている。

 私はペコリと頭を下げ、自室の開けた。そして、先日三船から引っ越しの挨拶の品を預かっていたことを思い出した。

「あ、あの!下の階に私の後輩が入居しまして。氷川さんにも渡してくれと、挨拶の品を預かっているんです」

「え?」

「少しだけ、待っててくれませんか?」

 そう言って勢いよく自室に入り、棚に置いておいた箱を取りに向かった。三十秒ほどで戻り、川室さんに手渡すと、携帯電話が鳴った。

「ありがとうございます。……もう、戻りますから、電話、どうぞ」

 何度目かの会釈をした氷川さんの背を見届けながら、私は電話を手に取った。こんな時間にいったい誰だろうかと携帯の画面を見て、一気に眉間にシワを寄せた。


母だった。


「……もしもし?」

「あ、香奈ちゃん?」

 少女のような無邪気な声色から、とりあえず緊急性はないと安堵した。

「どうしたの?」

「あのね!明日、そっちに行くからね!」

「は?」

「ほら!まだ、香奈ちゃんたちの新居に行ったことないじゃない?氷川さんにも結婚式以来、会ってないし!お土産も沢山持ってくわよ!」


 頭から血がさぁっと引くのがわかった。

 このマンションは基本的に当人以外立ち入り禁止だ。知り合いが尋ねてくる際は、前日までにコンシェルジュに話をしなければならない。

 他の住人のプライバシーを守るためということもあるが、この二つ並んでいる部屋を一つの部屋に合体させなくてはならないからだ。

 仕切りを動かし、二つの部屋の間にある部屋を出現させ、一つの大きな部屋を作る。生活感を出すために、お互いの荷物を少しずつ混ぜて配置したり、汚れ具合を均一にしたりと、色々と工作が必要なのだ。

「そんな、突然言われても!」

「だって、そうでもしないと招待してくれないでしょう?」

 拗ねた子供のような口調に、頭を横に振る。その拍子に、自分の部屋のドアを開けっぱなしにしていたことに気がついた。その先で、氷川さんが怪訝そうな顔でこちらを眺めていた。

「じゃあね!多分午後になると思うけど、着いたら連絡するわね!」

 母は相手の反応などお構いなしに弾むような声で答えると、一方的に電話を切った。私はしばらく固まって、電話口から流れてくる「ツーッ、ツーッ」という音を聞いていた。


「……大丈夫ですか?」


 恐々とした様子で、氷川さんが尋ねる。私は呆然としながら、

「明日、母がここに来ると……」

と、消え入りそうな声で呟いた。

 氷川さんは少しだけ目を見開くと、パッと腕時計を見て、

「深海さんに相談してみましょう。きっとまだ、エントランスにいらっしゃいますから」

と言って、玄関の外を指差した。


「大丈夫。まだ、『前日』です」


 その時、私は初めて氷川さんの笑った顔を見た。
 笑ったといっても、ぎこちなく口の端をほんのり上げている程度だったが、それでもこちらを気遣ってくれているということに変わりはなかった。

 私は、初めて見る氷川さんの表情に驚きながらも、返事をして、慌てて玄関を飛び出していった。


(続)




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透明の家(第一話 前編)
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