見出し画像

「失いたくない」が愛を物語る(前編)


 一目で分かった。手の平に収まるような大きさ、ふさふさと生えた毛に覆われ、つぶらで賢そうな瞳、愛くるしい口元、尾は縞模様。
 いつぞやの風変わりな恋人が出し抜けに「何のセット」と訊いてきて、半ば呆れながら解説するのにわざわざネットで調べたので、間違いない。


 ピグミーマーモセットだ。


 余程ぬいぐるみが動き出したのかと思ったが、チチッと鳴き、走り去る。
 それで、心臓が宙に浮いたような感じがして
「今の。見た?」
は言えずに種を飲んでしまった。


 縁側にて。近所の人に貰ったスイカを頬張り、虫の音に耳を澄ます、8月中旬の今宵はだらしなく隣に寝そべる彼、ヘビイチゴの提案でささやかな夏休みの真似事をしている。
「げ。なんだ、あいつ。かわいいな」
むくりと起き上がるなり、皮が捲れた唇から似付かわしくない言葉が漏れ、ついうっかり
「私は?」
と迫れば「アマナツは綺麗」で面倒な女を黙らせた。


 前述の交際相手や希少種は序の口、私たちは奇妙な生活を送っており、無論、ヘビイチゴとアマナツはニックネームである。


 もしも車がなければ、最寄駅から路線バスに乗り、終点で次のバスへ、ようやく降りることができたと思いきや待ち設けるのは左右に田畑、牧場、無人の野菜直売所が並び、遠くに高層マンションが見えるにも拘らず、まともな歩道なしの道路。誰しもがくたくたになるだろう〈コミカルな〉果てしなさ。
 冗談はさておき、そこを20分ほど行くとホームセンターがでんと構えるも、裏通りに空き家がちらほら。


 塀にツタが絡まり、内側に花壇、引き戸ガラスの玄関、燻んだ壁紙、続き和室(※襖で仕切られる二間)、陽が当たる縁側、匂い立つ昭和の台所、簡素な洗面台と風呂、ここまでは恐らく普通だが、2階部分は洋風で、敷き詰められたタイルが美しいリゾート地のようなルーフバルコニーに惚れ、10年かけて貯めた金を注ぎ込み、借りる際は「もうすぐ転職も難しい年齢でしょうに」母親と大いに揉めた。


「結婚とか出産は諦めたのかしら」
 時代は変われど根強く、独りで生きると何らかの勝手なイメージを持たれる。
 彼女の問いに対し、私の答えはこれ。
「残念だけど。強いて言えば、私の引っ越しを知って、いの一番に連絡してきた男が既婚者だったから。信じられなくてね」

 付け入る隙を与えられたとばかりに、隠れ家扱いされーーとにかく腹立たしく、打ち明けたら母の共感を得る筈が、
「へぇ」
ただ、頭に冷水をかけるかの如く短い返事を聞き、潔く笑い飛ばしてもくれず、以来、会っていない。


「ほれ、交換日記とやらに落書きしといたぞ」
 暗い霧に包まれたところ、ヘビイチゴに話し掛けられ、はっとする。
「ありがとう」
 仲良くスイカを持つピグミーマーモセットと私。波打つ髪の毛(半乾き)を1本ずつボールペンで描いて、コンプレックスの眠たげな目に夜空の星が瞬き、泣きぼくろがハート型で、素っぴん且つ寝巻きの私を彼はラブリーに仕上げた。


「アマナツは身なりに無頓着っつーか。ちっとは気を〈つけろ〉よ」
スイカを冷やすべく深皿の底にゴロゴロと入れた氷をかじりつつ、彼はぶっきらぼうに言い、片付けを始める。
『俺の前ならいい』、一筆添えて。
「っ!」
湧き上がってくる感情のミックスジュース、気を〈つかえ〉と聞き誤り、即座に余計なお世話だと返さなくて良かった。


 母に現状を伝えれば尚更、関係が拗れるに違いない。
 記憶喪失の死神と交流を図る、なんて。
 私とて嘘だと分かっていながら、毎回ふらりと訪れるヘビイチゴの芝居に付き合い、騙されたふりをした上で「何かしら思い出せるかも」とノートに書かせる。


 実際、真に受けるくらいのピュアな心は持ち合わせておらず、大方、一人暮らしの女性を狙ったのだろうが私はハズレ、早めに見切りをつけて欲しかった。
「戸締まりはしっかり。じゃ」
 当の本人は皿洗いを済ませるとそのまま廊下を通り、おおよその住処が悟られぬよう、闇に紛れて帰る。
 まだ死の誘いはなく、寧ろ微量の愛をちりばめて、困ったものだ。

 彼との出会いは梅雨。
 丁度こちらが車に乗り、ショッピングセンターの食料品売り場に出掛ける時。
 斜向かいのベーカリー跡地で、ブラックスーツの男性が、くわえ煙草で傘もささずに佇んでいた。

 ぎょっとさせられ、あちらが不意に重たそうな髪をかきあげた瞬間、眉毛の角度、細くシャープな目つき、主張し過ぎないすっきりした鼻、微かに震える薄い唇、顎髭に色気を感じ、ワイパーが行ったり来たりする。
 ぶつかった視線を外す寸前、ほぼ無意識のうちに私は口パクで彼に
「喫煙は一旦やめて、どこかに入ったらいかがですか。風邪を引きますよ」
こう告げた。


 通常、自分から不審者(?)に関わろうとしない、が、相手の足元に生え広がった蛇苺がうまいこと警戒を緩める。
「火ぃつけてねえわ。そんで、こんなやつに構わなきゃいいし、蒸し暑いぐらいなのにさ。優しいんだな」
 予想通りのしゃがれた声がパワーウィンドウを下げなくともカーオーディオから流れてきた(気がした)。
 目を落としてニヤリと笑うさま、突風、のち、しかめ面、雷が鳴る。
「あー、あんたには俺の話が通じそうだ」


 彼は自分の名を覚えていなかった。
 人間時代が存在したか否かも不明で、死神として生きてきて、寝て起きたら数年分の記憶が抜け落ちており、あろうことか、ただでさえ〈もたつく〉仕事中に眠ってしまい、コミュニティから追い払われ、さすらい、私が唯一、言葉を掛けたと滑らかに語る。

 こちらは途方に暮れて、容姿こそ魅力的だけれども変わり者との印象を受け、あちらの神経を逆撫でしないように適度な相槌を打った。


「まぁ、運の尽きだわ。悪いがいつかは代わりに連れて行く」
 本当にずんずんと近寄ってきて、ついには我が家の敷地内に足を踏み入れる。急いで鍵をかけるも、豪快なくしゃみに肩をすくめ、
「タオルはあなたにプレゼントします。うーんと、引っ越しの手土産が余ってて。あ、蜜柑の柄でも問題なければ、折り畳み傘もどうぞ」
念の為、助手席から差し出した。


 翌朝、同じ場所で待ち構えて、律儀にも返却、何故だか新品同様、どうも懐かれたらしく、ユニークなペースにはまる。

 名付けは互いに。知り合いたてのくせにヘビイチゴはまるで幼馴染、彼と一緒だと自然体でいられて楽しく、交流を重ねる度に、より深く付き合いたい、だとか、いやいや、初対面で人を欺く男と何を? 
 血迷って、シャープペンシルで書いては消す日々が、少しずつ確実に、私の傷を癒していた。

『日記だと文字が残って、忘れられないもの』
 左から右に書くと汚れる手の小指側、擦って洗い流した灰色、紙はほろ苦い煙草の匂いがする。