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アメリカン・ポップス・クロニクルSongwriters Series #03

P. F. Sloan & Steve Barri

Philip Gary Schleinは1945年9月18日、ニューヨーク、ニューヨーク市に生まれれて、1957年に一家はカリフォルニア州ウェストハリウッドに引っ越しました。父親は薬剤師で、自分の店の酒類販売免許の申請を何度も受け入れられず、名前をSchleinからSloanに変えました。

1959年8月、Philip Sloanは14歳になる直前に、自作のロックンロール調の曲をAladdin Recordsで録音して、その2か月後にFlip Sloan名義でシングル "All I Want Is Loving" / "Little Girl in the Cabin"をリリースしましたが、残念ながらチャートインは果たせませんでした。翌年、Mart Recordsからのシングル "She's My Girl" / "If You Believe In Me"も同様の結果でした。しかし、彼は16歳で、西海岸では最大の音楽出版社のスクリーン・ジェムズのスタッフ・ライターになりました。

Steven Barry Lipkinは1942年2月23日、ニューヨークはブルックリンの生まれで、彼も幼い頃にカリフォルニアに移住しています。10代半ばに曲を書き始めた彼は、コロンビア映画の出版部門であるスクリーン・ジェムズ・ミュージックに作った曲を送っていました。スクリーン・ジェムズの責任者のLou Adlerは、彼が送ってきた曲の"Susie Jones"を気に入り、Steve Barriが結成したThe Nortonesが、59年Warner Bros. Recordsからリリースしましたが、ヒットはしませんでした。

Steve Barriは、61年~62年にRona Labelからソロ歌手としてシングルを4枚程出しましたが、これらも結果は出せませんでした。しかし、この後The Teddy Bearsの元メンバーのCarol Connorsと出会い、彼女の妹Cherylを加えて、トリオのThe Storytellersを結成し、Dimension Recordsから"When Two People (Are in Love)" / "Time Will Tell"をリリースすると、これがまたLou Adlerに関わっていくことになり、Steve Barriはスクリーン・ジェムズと契約しました。

このようにして2人は別々にスクリーン・ジェムズで働くことになり、Lou Adlerは2人を引き合わせ、コンビを組むようになりました。彼らは様々なグループ名を使って、サーフィン・ソングをリリースして、ヒットを狙っていました。The Wildcats、The Lifeguards、The Rally-Packs、Philip And Stephan、The Street Cleaners などがそのグループです。The Fantastic Baggysが一番その名が知られているでしょうか。

1964年、P. F. SloanとSteve Barriが書いた"Kick That Little Foot Sally Ann"は、Round Robinが歌った曲で、Steve DouglasのサックスにThe Blossomsのコーラスが絡むダンス・ナンバーのアレンジャーはJack Nitzscheでした。3月にDomain Labelからリリースされたこの曲は、彼らにとって初の全米Hot100にランクされて、最高位は61位でした。

彼らはLou Adlerから声が掛かり、彼がプロデュースしていたJan and Deanのバックシンガーと、Sloanはリード・ギター、Barriはパーカッションとして参加することになりました。64年4月リリースのアルバム『Dead Man's Curve / The New Girl in School』、8月の『Ride the Wild Surf』、9月の『The Little Old Lady from Pasadena』、65年1月のライブ・アルバム『Command Performance - Live in Person』にP. F. Sloan & Steve Barriのクレジットがあります。全米3位とヒットした"The Little Old Lady (from Pasadena)"ではDean Torrenceに代わって、Sloanがファルセット・パートを歌っています。64年末に公開されたT.A.M.I.ショーのテーマ曲"(Here They Come) From All Over the World"はP. F. Sloan & Steve Barriが作った曲でした。また、Bruce & Terryの"Summer Means Fun"も彼らの作品です。

1964年、Lou AdlerはJohnny Riversの作品をImperial RecordsからリリースするためにDunhill Productionsを作り、それが新しいレーベルに発展していきDunhill Recordsが出来て、P. F. SloanとSteve Barriも一緒に連れていきました。彼らは精力的に作曲活動に取り組み、またそれぞれミュージシャンとしても作品を残しています。

The Turtlesの"You Baby"や "Let Me Be"、Herman's Hermitsの"A Must to Avoid"に"Hold On!"、Johnny Riversの"Secret Agent Man"といった、今までのサーフィン・ミュージックに加えて、西海岸で人気が出ていたフォークロック調の曲を提供するようになっていました。なかでも、Barry McGuireに書いた"Eve of Destruction"は全米1位のヒット曲になりました。

P.F. Sloanはギタリストとしても活動の幅を広げて、レッキング・クルーの一員として、数々のセッションに参加していました。The Mamas & the PapasはBarry McGuireのアルバム『This Precious Time』でバックヴォーカルを歌って、初レコーディングを行いましたが、John Phillipsは"California Dreamin'"を提供していて、Sloanはイントロの印象的なギターフレーズを弾き、それはThe Mamas & the Papasのバージョンでも採用されています。先程の"Secret Agent Man"のギターリフも、よく知られている名演です。

SloanとBarriはDunhill Recordsの最初のアルバムも作っていて、グループ名はRincon Surfside Bandで、『The Surfing Song Book』というアルバムの内容は、The Beach BoysやJan & Deanのサーフィン・サウンドの作品集でした。

2人がDunhillで一番力を注いだのは、The Grass Rootsとしてのレコーディングでした。もともとのThe Grass Rootsはご多分に漏れず彼らのレコーディング・プロジェクトで、Sloanがリードヴォーカルとギター、Larry Knechtelが鍵盤楽器を、 Joe Osbornがベース、Bones Howeがドラムを担当していました。

65年、"Where Were You When I Needed You"はロサンゼルスのいくつかのラジオ局に送られ、エアプレイすると好評を得て、The Grass Rootsとしての活動が必要になってきました。しかし、Lou Adlerは2人がThe Grass Rootsのメンバーとして活動することに反対で、彼らは別のメンバーを探さねばならなくなりました。カリフォルニア州サンマテオで開催されたティーンエイジ・フェアのバトル・オブ・ザ・バンドで優勝したサンフランシスコのWillie FultonがヴォーカルのThe Bedouinsに決めて、このメンバー達はThe Grass Rootsの活動を始め、66年6月にFultonバージョンの"Where Were You When I Needed You"をリリースして、全米28位のヒットになりました。

新しいメンバー達は、ヒットに気を良くして、自分達のレコードのレコーディングを望みましたが、ヴォーカルのWillie FultonとドラムのJoel Larson以外の演奏力に不安があり、実際アルバムも大半は仕上がっていて、Dunhill側は彼らの要求を拒み、それに不満を募らせた彼らはサンフランシスコに帰ってしまいました。

またしても新しいThe Grass Rootsのメンバーを探すことになり、目を付けたのはDunhillにデモを持ち込んでいたThe 13th Floorでした。メンバーはCreed BrattonとWarren Entnerを中心とした4人組で、Warren EntnerはThe Spectors Threeのメンバーでした。

新しいThe Grass Rootsは、67年5月、イギリスのバンドThe Rokesがヒットさせていた伊語詞の"Piangi con me"(私と泣いて)を英語詞でカバーして"Let's Live for Today"(今日を生きよう)をリリース、6月にチャート最高位8位を記録するヒットになりました。この曲はベトナム戦争時の世相を反映した内容が支持されて、この時代に生まれた最も強力な曲とレコードのひとつと評されました。

67年末、The Grass Rootsはアルバム『Feelings』をレコーディング、バンドのメンバーの楽曲の採用も増えてきました。Steve Barriのプロデュースが強く表に出るようになってきて、レコーディング・アーティストに拘ったP. F. Sloanと意見が合わなくなってきて、Sloanはバンドに関わることを避けるようになり、ソロ活動に専念するようになっていきました。

Steve Barriによれば、Sloanは"Eve of Destruction"が成功した頃から徐々に変わっていったと言います。Barry McGuireと一緒に英国に行き、帰って来た時はまるで別人のようだったとも言っていました。

P.F. SloanのDunhillでの最後のリリースは、"Karma (A Study of Divinations)" /
"I Can't Help But Wonder, Elizabeth"で、Philip Sloan名義でした。

SloanがDunhill Recordsを去った後も、Steve Barriは引き続きThe Grass Rootsのプロデュースを行い、また69年にはMama Cassのシングル曲"It's Getting Better"や"Make Your Own Kind of Music"のプロデュースも行いました。  Dunhill RecordsがABC Recordsに買収された後も、Steve BarriはA&R責任者として残りました。この後Waner Bros. RecordsやCapitol Recordsでレコード・プロデューサー業を続けました。

P. F. SloanはDunhillを去った後、68年ATCOからアルバム『Measure of Pleasure』、72年にはMums Recordsから『Raised on Records』をリリースしましたが、、ストレス性の精神的な病気に悩まされて、音楽シーンから姿を消してしまいました。

「私は愛されたかった。エルヴィスになりたかったんだ。. . でも、P.F. Sloanは? 彼は正直さと真実を求めていました」P. F. Sloanはこう語っていました。

ずっとP.F.スローンを探している
彼の行方を知る者はいない
彼の歌を聞いた者もいない

(2022/03/31)

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