見出し画像

アメリカン・ポップス・クロニクル 1960年代編 ch.3 (6)

誰にも奪えぬこの想い

<I'll Hide My Tears / The Jets>

1957年の"Buzz Buzz Buzz"でR&B5位、ポップでも11位とヒットしたThe Hollywood Flames。1954年頃には様々な別名でもレコーディングしていたようで、このThe Jetsもその中のひとつでした。54年の"I'll Hide My Tears"、この典型的なドゥーワップ・バラードを書いていたのは、マレー・ウィルソン、あのウィルソン3兄弟の父親です。

1942年6月20日、長男ブライアン・ウィルソン、イングルウッドにて誕生。2歳の頃に家族はホーソーンに転居します。44年12月4日、次男デニス・ウィルソン誕生。46年12月21日、三男カール・ウィルソン誕生。幼い頃のブライアンの音楽体験、神童伝説のエピソードはいくつかありますが、それは誰かに任せるとして、父親マレーは家のガレージを改装して音楽室を作り、兄弟たちが音楽に親しむ環境を作りました。ただし、おもに長男のブライアンに対しては厳しく接していて、時には精神的、肉体的ダメージを与えることもありました。しかし、父親がブライアンの持つ優れた音楽的才能を、早い時期から気付いていたことは、間違いないことだと思います。

ブライアンは、フォー・フレッシュメンやハイローズなどのコーラスグループに強く魅かれていて、兄弟でハーモニーの練習を自宅の音楽室で頻繁にしていたということです。高校生の頃になると、この3人に従兄弟のマイク・ラブが加わり、カール&ザ・パッションズを結成して、学校の芸術祭で演奏していました。更に、この4人に、ブライアンの同級生でフットボール部のチームメイトのアル・ジャーディンがバンドに加わり、5人組のバンドが出来上がりました。

1960年、ブライアン・ウィルソンはエル・カミノ大学に入学して心理学を学びながら、音楽活動を続けていて、61年にはディオン&ザ・ベルモンツの「星に願いを」にインスパイアされた初の自作曲を創りました。その曲は後に「サーファー・ガール」となりました。

彼ら5人組はペンデルトーンズと名乗り、5人の中でただ一人のサーファーだったデニスの発案で、ブライアンとマイクが「サーフィン」を書きました。作曲家だった父マレーは、自身の出版社のモーガン夫妻に声をかけ、夫妻の所有するスタジオのエックス・レーベルで「サーフィン」を録音し、キャンディックス・レーベルと契約、61年11月27日にデビュー・シングルがリリースされました。グループ名はペンデルトーンンズからザ・ビーチボーイズとなりました。

「サーフィン」はローカルヒットにとどまり、キャンディックス・レーベルの財政難もあり、マネージャーのマレーは契約を解除して、次の契約先を探します。62年春先に、ビーチボーイズは大手キャピトル・レコードと契約しました。アル・ジャーディンは大学での勉学のためグループを離れます。新しいギタリストは、ウィルソン家の近所のデヴィッド・マークスに決まり、再出発となりました。

62年6月、キャピトル・レコードからの1枚目のシングル「サーフィン・サファリ/409」が発売され、「サーフィン・サファリ」は全米14位のヒットになりました。軽妙なリズムと絶妙なハーモニー、新しいサーフィン/ホットロッド・サウンドは人気を獲得していきます。彼らの活躍は、ディック・デイルやジャン&ディーン、ザ・シャンテイズらが南カリフォルニアで花開き始めた、サーフィン・ロック・ブームの火付け役となりました。

3枚目のシングル「サーフィン・USA」は3位まで駆け上がる大ヒットとなり、デビュー3年目でトップ・グループになりました。アル・ジャーディンはグループに戻ってきています。63年までに4枚のアルバムをリリースして、売れ行きも好調で、たったこれだけの年月で彼らの成長ぶりがアルバム1枚ごとに感じられる、素晴らしい作品となっています。特にブライアンの成長は著しく、自らプロデュースするまでになりました。

63年初頭には初めてカリフォルニアを離れて、お隣のアリゾナ州ツーソンでライブを行うと、3月にはシアトルで公演、4月末からの中西部を回るツアーはブライアン抜きで行われました。6月のハワイ・ツアーでは9日間で16公演を行うハード・スケジュール、ここにもブライアンは不参加です。7月からのサマーツアーにはブライアンも参加して、中西部から北東部を回る約2か月のツアーでした。10月のハリウッド・ボウルでのライブからは、デヴィッド・マークスに代わりアル・ジャーディンが正式に復帰しました。

「サーファー・ガール」は全米7位、「ビー・トゥルー・トゥ・ユア・スクール」は全米6位とヒットが続きます。しかし、レコーディングとライブの繰り返しは、徐々にブライアンの中で、少しずつ歯車が狂い始めていました。セルフ・プロデュースすることで、新しい可能性がひろがる反面、作曲やアレンジの工夫など、プレッシャーも大きく、精神的疲労も積み重なっていました。ブライアンは次の新しいステップに踏み込もうとしています。その辺りに関しては、1964年以降のビーチボーイズの回で紹介したいと思います。

(2022/02/10)

ch.3

サーフビート・ゴーズ・オン (2022/01/29)
A Sunday Kind of Love (2022/02/01)
夜明け前の月光 (2022/02/03)
West Coast R&B (2022/02/05)
くよくよしないぜ (2022/02/06)

ch.2

1.シビレさせたのは誰 (2022/01/14)
2.ブロンクス・スタイル (2022/01/15)
3.ツイストが2度輝けば (2022/01/21)
4.太陽を探せ (2022/01/22)
5.1961年のNo.1 R&Bソング (2022/01/25)
6.Romancing the '60s (2022/01/27)

ch.1

1.1959年のNo.1ヒットソング (2021/12/31)
2,1960年のNo.1ヒットソング (2021/12/31)
3.1960年のヒットソング (2021/12/31)
4.インストゥルメンタル・ヒット (2022/01/04)
5.60'Sポップスの夜明け (2022/01/05)
6.R&B、ソウルミュージックの躍進 (2022/01/07)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?