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アメリカン・ポップス・クロニクル 1960年代編 ch.5 (1)

The Boy I Love

テキサス州ブラウンウッドのハワード・ペイン・カレッジの学生2人、レイ・ヒルデブランドとジル・ジャクソンは、地元のラジオ局KEANがThe American Cancer Societyのための歌を一般リスナーに募集していて、レイとジルの2人はラジオ局のスタジオで歌いました。

フィリップス・レコードと契約した2人は、ポールとポーラとなり、62年11月"Hey Paula"をリリース。63年2月には全米ポップ1位を獲得、R&Bでも1位になりました。アメリカン・ポップスには男女デュエットの曲は沢山ありますが、一度聴いたら忘れることのない、非常に親しみやすいメロディの曲です。活動期間が短いのは残念です。

オハイオ州アクロンで活動していたのが、男女混淆R&Bグループのルビー&ザ・ロマンティックスです。女性メンバーのルビー・ナッシュは、学生の頃から、妹や友人と4人でアクロナイトというグループを結成して歌っていました。ジョージ・リー、ロナルド・モズレー、リロイ・ファン、エド・ロバーツの男性4人はシュープリームス、その後フェイローズと名乗りコーラスグループを組んでいました。62年、ルビー・ナッシュはフェイローズに誘われて、フェイローズは女性1人、男性4人のグループになり、オーデションを受けた結果、ニューヨークのカップ・レコードと契約しました。契約後グループ名をルビー&ザ・ロマンティックスとしました。63年2月、デビューシングル"Our Day Will Come"をリリース。2月9日付全米チャート79位でランクイン、6週間後には全米、R&Bともに1位を獲得しました。

3枚目のシングル"Hey There Lonely Boy"は全米27位でしたが、7年後エディ・ホールマンが"Hey There Lonely Girl"とカバーして、全米2位にしました。

ドゥーワップ・グループ、マーキーズのメンバーで"Bohemian Daddy"を書いたロニー・マック、彼はニューヨーク、ハーレムの出身で、独学でピアノを弾き始め、作曲するようになりました。ロニー・マックはシンガーのジミー・リバースと出会い、彼が組んだヴォーカルグループに曲を書き、マネジメントも担当しました。グループはゴーン・レコードのオーデションを受け、マックが書いた"Puppy Love"と"Say You Love Me"をレコーディング、1958年末にリトル・ジミー&ザ・トップスでV-Toneレーベルからリリースされました。 

ロニー・マックはブロンクスで、ジェームス・モンロー高校の女学生3人組が歌っているのを見て、ザ・トップスの女性ヴォーカリストで"Say You Love Me"を歌っていたシルヴィア・ピーターソンを女学生トリオに紹介して、4人組のガールグループが結成されました。

マックはザ・トップス用の曲として書いていた"She's So Fine"を、ガールグループ向けに書き換えて、"He's So Fine"が出来上がり、グループ名をシフォンズと決めて、デモを録音しました。マックはデモを、新しくトーケンズのメンバーが設立した音楽出版会社のブライト・チューンズのハンク・メドレスに渡しました。

シフォンズはローリー・レコードと契約、トーケンズのメンバーとキャロル・キングのピアノで"He's So Fine"をレコーディングして、63年1月に発売しました。2月23日付けチャートに87位で初登場、3月30日付けチャートで全米1位に輝きました。R&Bチャートでも1位になっています。5月にリリースした"One Fine Day"はゴフィン=キング作、全米5位のヒットでした。この年にはシングル曲をタイトルにしたアルバムも2枚リリースしています。

ニュージャージー州テナフライ近郊で育った少女が16歳、ドワイト女子高に通っていた頃、レコーディングした曲が"It's My Party"でした。彼女の名はレスリー・ゴア、プロデュースしたのはクインシー・ジョーンズです。

歌手志望の彼女は、ニューヨークでヴォーカル・レッスンを受けていて、ある日スタジオに入りデモを作り、それがマーキュリー・レコードを通じてクインシー・ジョーンズに渡りました。63年2月、レスリー・ゴアとクインシー・ジョーンズは、アーロン・シュローダーの出版社の持つ200曲ほどのデモの中から、2人が気に入った曲が"It's My Party"で、3月30日マンハッタンのベル・サウンド・スタジオで録音されました。

同じ3月のある日、アーロン・シュローダーの事務所にフィル・スペクターが訪ねてきて、何曲かのデモを聴き、その中に"It's My Party"があり、スペクターはクリスタルズの次の曲に選びました。

レスリー・ゴアが"It's My Party"を録音した日の夜、3月30日(土)の夜、カーネギーホールでシャルル・アズナヴールの公演があり、偶然にもフィル・スペクター、クインシー・ジョーンズの2人はカーネギーホールに来ていました。そこで2人が顔を合わせた時、スペクターが"It's My Party"を録音した話をジョーンズにしたのです。ジョーンズは公演もそっちのけでベル・サウンド・スタジオに引き返し、急遽100枚をプレスして、全米の主要なラジオ局に送りました。翌週の金曜日にはラジオから流れていました。

63年4月末、レスリー・ゴアの"It's My Party"は正式にリリースされ、5月11日付けチャートに60位で初登場、6月1日全米1位となり、翌週にはR&Bでも1位になりました。プロデューサー、クインシー・ジョーンズの腕と判断が掴み取ったNo.1でもありました。彼女はこの後、大学生になりますが、学業と歌手活動を並行して行い、クインシー・ジョーンズも66年まで彼女のプロデュースを続け、"Judy's Turn to Cry" (全米5位)、"She's a Fool" (全米5位)、64年の"You Don't Own Me" (全米2位)とヒットを続けました。

このリトル・ペギー・マーチの"I Will Follow Him"も含めて、今回紹介した曲は全てポップ、R&Bどちらのチャートでも1位になっています。このようなクロスオーバーが頻繫になったためか、63年11月23日以降一時的にビルボードはR&Bチャートの発行を中断しました。

(2022/03/03)

Flip and Nitty (2022/03/03)

ch.4

1.ビートにしびれて (2022/02/13)
2.Power Blues & Sophisticated Soul (2022/02/18)
3.I'll Go Crazy (2022/02/20)
4.Do You Wanna Go With Me (2022/02/23)
5.I Got Lucky (2022/02/25)
6.The Lovin' Touch (2022/02/28)

ch.3

1.サーフビート・ゴーズ・オン (2022/01/29)
2.A Sunday Kind of Love (2022/02/01)
3.夜明け前の月光 (2022/02/03)
4.West Coast R&B (2022/02/05)
5.くよくよしないぜ (2022/02/06)
6.誰にも奪えぬこの想い (2022/02/10)

ch.2

1.シビレさせたのは誰 (2022/01/14)
2.ブロンクス・スタイル (2022/01/15)
3.ツイストが2度輝けば (2022/01/21)
4.太陽を探せ (2022/01/22)
5.1961年のNo.1 R&Bソング (2022/01/25)
6.Romancing the '60s (2022/01/27)

ch.1

1.1959年のNo.1ヒットソング (2021/12/31)
2,1960年のNo.1ヒットソング (2021/12/31)
3.1960年のヒットソング (2021/12/31)
4.インストゥルメンタル・ヒット (2022/01/04)
5.60'Sポップスの夜明け (2022/01/05)
6.R&B、ソウルミュージックの躍進 (2022/01/07)

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