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アメリカン・ポップス・クロニクル 1960年代編 ch.5 (3)

Tedesco and Pitman

エリー・グリニッチが通っていたレコード店のオーナーは、彼女が作曲して歌うことを知っていて、その才能を高く評価してくれていました。そこでオーナーは、エリーにRCAの重役のエド・ヘラーを紹介しました。1958年、エド・ヘラーは、17歳のエリー・グリニッチが歌う曲を聴き、彼女と契約して、"Cha-Cha Charming / Silly Isn't It"を録音、リリースしました。Greenwichという名前では誤読されやすいので、エリー・ゲイ Ellie Gayeとしてリリースされました。しかし、このシングルは結果を出すことはできませんでした。

クイーンズカレッジに通っていたエリー・グリニッチは、音楽の授業で教授からポップ・ミュージックを録音したことで嫌がらせを受け、ホフストラ大学に転校します。彼女は61年の卒業まで音楽活動をしながら在籍し、卒業後は高校の英語教師の職に就きましたが、1か月で辞めてしまいました。

教師を辞めたエリーは、ブリルビルディングのエントランスホールに出入りするようになり、ヒル・アンド・レンジ社のポール・ケースと出会い、彼にドク・ポーマスを紹介されました。ある日のこと、リーバー&ストーラーが隣の部屋から聞こえてくるピアノの音と歌声を、キャロル・キングとばかり思っていたようで、それがエリー・グリニッチだと分かると、彼女の才能に可能性を感じて、彼らは自分たちの出版社のトリオ・ミュージックのスタッフライターとして契約しました。

ジョエル・アデルバーグは高校時代にドゥーワップ・グループを組んで、歌を作っていました。卒業後、陸軍に従軍し、退役後ニューヨークに戻りクレイ大学で工業デザインを学びましたが、歌手志望の気持ちが強く、大学を中退しました。エドワード B. マークス音楽出版社のアーノルド・ショーと知り合い、60年にRCAと契約して、ジェフ・バリーと名乗り、シングルを数枚残しましたが、歌手としては成功しませんでした。ショーは彼の作家としての才能を認め、最初の成功を収めています。ジェフ・バリーの作詞作曲でサム・クックの"Teenage Sonata"がR&B22位、作詞家のベン・ローリーと組んで、レイ・ピーターソンの"Tell Laura I Love Her"はポップ7位のヒットでした。この曲は英国人のリッキー・ヴァランスがカバーして全英1位にしています。

ジェフ・バリーとエリー・グリニッチが出会ったのは、59年、共通の親戚の家で行われた感謝祭の夕食会の席でした。ジェフは奥さんと一緒の出席でした。2人にはソングライターという共通の話題があり、会話を交わす機会が多くなっていきました。まだ学生だったエリーは、講義が終わってからジェフにピアノを教えたり、ジェフの曲のデモの録音を手伝ったりしていました。ただ、まだ2人が一緒に曲を作ることはありませんでした。

エリー・グリニッチはトリオ・ミュージックで作詞家のトニー・パワーズとコンビを組み、ヒット曲を出しました。エキサイターズの"He's Got the Power"はポップ57位、ボブ・B・ソックス&ザ・ブルージーンズの"Why Do Lovers Break Each Others Hearts"は38位、ダーレン・ラブの"(Today I Met) The Boy I'm Gonna Marry"は39位でした。この時、アーロン・シュローダーはフィル・スペクターにエリーを紹介、彼女の楽曲を共同プロデュースしています。また、この時期の彼女はデモ・シンガーとして多くの録音に参加していました。

1962年10月28日、ジェフ・バリーとエリー・グリニッチは結婚、作家コンビを組みました。ジェフ・バリー24歳、エリー・グリニッチ22歳の時でした。彼らがマン&ワイルやキング&ゴフィンと違ったのは、作詞・作曲の担当が明確には分かれていなくて、2人とも詞も書くし、曲も作るというところです。

1963年4月、クリスタルズは"Da Doo Ron Ron"をリリース、バリー=グリニッチ作の最初のシングルは、全米3位の大ヒットでした。続いて7月リリースの"Then He Kissed Me"は、全米6位を記録しました。この2曲のリード・ヴォーカルはドロレス・"ララ"・ブルックスです。また、この2曲の間には、ボブ・B・ソックス&ザ・ブルージーンズの"Not Too Young to Get Married" (#63)、ダーレン・ラブの"Wait ‘til My Bobby Gets Home" (#26)と、フィレス・レコードではバリー=グリニッチ作のシングルが続きます。

ヴェロニカ・ベネット、エステル・ベネット、ネドラ・タリーの3人はコルピックス・レコードと契約して、最初はロニー&ザ・リレイティヴス、その後ロネッツと名乗り、シングルを4枚リリースしましたが、どれもチャートに登場することはなく、63年初頭彼女らはフィル・スペクターのオーデションを受けることになり、ミラ・サウンド・スタジオで行われました。スペクターは、3人の親にコルピックスとの契約解除を申し出るように指示して、63年3月にロネッツと正式に契約しました。

ニューヨークからロスアンゼルスにやって来たロネッツに最初に用意された曲は、バリー&グリニッチの"Why Don't They Let Us Fall in Love"でしたが、この曲はスペクターの判断で、リリースは見送られました。

63年7月5日、ゴールド・スター・スタジオに集められたメンバーは、ドラムス/ハル・ブレイン、パーカッション/フランク・キャップ、ベース/キャロル・ケイとレイ・ポールマン、キーボード/アル・デロイとレオン・ラッセル、ピアノ/ドン・ランディ、ギター/トミー・テデスコとビル・ピットマン、トロンボーン/ルイス・ブラックバーン、サキソフォン/スティーヴ・ダグラスとジェイ・ミグリオーリ、バックヴォーカル/エリー・グリニッチ、ダーレン・ラブ、ファニタ・ジェイムス、グレイシア・ニッチェ、ボビー・シーン、ソニー・ボノ、シェール、ニノ・テンポ、そしてリード・ヴォーカルのロニー・ベネットです。

バリー&グリニッチ作、アレンジはジャック・ニッチェ、エンジニアはラリー・レヴィン、プロデューサーにフィル・スペクター、ポップス史上に残る名曲がこの日誕生しました。

8月にリリースされた"Be My Baby"は、8月31日付けチャートに90位で初登場すると、6週間後の10月12日付けチャートで最高位2位を記録しました。

ロネッツはこの後12月にリリースの"Baby, I Love You"が24位、前後しますが、10月のダーレン・ラブ"A Fine Fine Boy"は53位と、全てバリー&グリニッチの曲でした。まさに、この年はフィル・スペクターの年であり、ジェフ・バリーとエリー・グリニッチの年となりました。

(2022/03/08)

ch.5

The Boy I Love (2022/03/03)
Flip and Nitty (2022/03/06)

Twilight Time (2022/03/10)

ch.4

1.ビートにしびれて (2022/02/13)
2.Power Blues & Sophisticated Soul (2022/02/18)
3.I'll Go Crazy (2022/02/20)
4.Do You Wanna Go With Me (2022/02/23)
5.I Got Lucky (2022/02/25)
6.The Lovin' Touch (2022/02/28)

ch.3

1.サーフビート・ゴーズ・オン (2022/01/29)
2.A Sunday Kind of Love (2022/02/01)
3.夜明け前の月光 (2022/02/03)
4.West Coast R&B (2022/02/05)
5.くよくよしないぜ (2022/02/06)
6.誰にも奪えぬこの想い (2022/02/10)

ch.2

1.シビレさせたのは誰 (2022/01/14)
2.ブロンクス・スタイル (2022/01/15)
3.ツイストが2度輝けば (2022/01/21)
4.太陽を探せ (2022/01/22)
5.1961年のNo.1 R&Bソング (2022/01/25)
6.Romancing the '60s (2022/01/27)

ch.1

1.1959年のNo.1ヒットソング (2021/12/31)
2,1960年のNo.1ヒットソング (2021/12/31)
3.1960年のヒットソング (2021/12/31)
4.インストゥルメンタル・ヒット (2022/01/04)
5.60'Sポップスの夜明け (2022/01/05)
6.R&B、ソウルミュージックの躍進 (2022/01/07)

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