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世界を、ごくごくと飲み込め。

先月から、表現や演劇にかんするレッスンに行きいろいろなことを学ばせていただいている。とても楽しく感じ、新たに知識がつくことがわくわくする。

私は今まで自己表現にスポットをあて自身の発信を続けてきたが、それにさらに磨きをかけるためにありのままの自分の状態が輝いていないといけないということ。

それが表現者としてのスタートラインだということがわかった。

演劇の世界はとても奥が深い。以前にも書いたかもしれないが演劇をしたのは学生の頃に少しだけで大人になってから関わったことがない。あの頃の自分と今の自分は明らかに違っていて、だけど共通するのは「楽しい」と感じることだ。

私はやはり、子供のころから人前で何かを魅せるということにとても楽しさを見出す人間で、一度は止められたが芸能の道を目指したこともあった。この年でまたその道に向かおうとして、時々邪魔が入るけれどそれでも負けずに進んでいる。

演劇の話に戻るが、演劇というのはそこには存在していない世界の住人となり、仕草やセリフが求められる。少し顔を合わせた程の人と話したこともない内容を話し、さもそれが前から続いていた関係性のように見せないといけない。

演技は、「演じる」が先に来てはいけない。その世界に入り込んで、その世界の、その「自分」になる。

世界をまるまる飲み込んで、世界の中に飛び込んでいく。

そこから出るであろうセリフや仕草が、台本に書かれている。

この「世界に飛び込む」というのは、私がディスレクシアと共感覚で覚える小説への反応ととても似ていて、いいのか悪いのか、レッスンでつかったほんの数枚の台本の中に、レッスンが終わった後も私は取り残されてしまったような気分が続いた。

レッスンでは二つの台本、全く違う舞台での物語のものを使用したが、それぞれの世界の中に「私」は入り込んでしまい、その私はもう戻ってくることはなさそうだ。

決して気分の悪いものではなかった。それどころかわくわくし、その世界に入り込むと別世界の情景がたくさんと見えた。

ディスレクシアゆえ、共感覚ゆえ避けてきた「物語を読むこと」がもしかすると演劇の世界では磨いていけば強みになるかもしれない。

見えるのだ。世界が。色も反応しているだろうから、思い起こせばそれぞれの台本の物語の色を描くこともできるだろう。

共感覚での生きづらさを武器にする、「表現」の世界に出会えた気がした。


山口葵

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