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「昭和元禄落語心中」で、日本から失われつつある「粋」を味わう

「お前さんの全部込めてな、くだらない落語聞かせてやんなよ」

✔「昭和元禄落語心中」と豪華声優陣の魅力

 どうも。本日はいっぱいのお運びだそうで、ありがたいことで以て、厚く御礼申し上げます。「落語」と言いますと、どうも廃れた日本文化って思われてるようでございますが、若い方でも落語が好きなんていう、粋ってもんが分かる方もそこそこいるそうじゃあありませんか…。

 …ちょっと落語っぽく始めて見ました。twitterで御贔屓にして下さっている方がおススメしてくれました。絵も美しく、センスが良い画で、セリフの一つ一つがとても意気で、江戸っ子らしいリズミカルさで、聞いていてとても心地いいです。

 またキャストは、主人公の与太郎は関智一、与太郎の師匠で菊比古 / 八代目 有楽亭八雲は石田彰、菊比古の兄弟弟子助六は山寺宏一と、豪華な陣立てです。落語は一人で何役も演じ分けするので、様々な声音を使いこなすこの3人のキャスティングはもう、最高としか言えません。この3声優の落語だけでも、一聴の価値があります。

 特に、石田彰の菊比古は、色気と品が塩梅がよく、この上なく「粋」で、花柳界で生まれ育った感じがよく表れています。かつ、若い時の生真面目さと年配になった時の余裕との演じ分けも見事です。

 普段の話方も、江戸っ子らしく「歩いて」を「歩って」、「新宿」は「しんじく」、「し」と「ひ」の発音もあいまいで「御贔屓」を「ごしいき」と言って、江戸っ子調の話し方も丁寧に再現されています。

 また「鹿芝居(噺家が演じる芝居)」の場面では、山寺宏一も石田彰も、歌舞伎の経験でもあるのかと思いたくなるような見事さです。特に、石田彰の弁天様、それ以降の艶物での色気は引き込まれます

✔八代目 有楽亭八雲は天才ではない

 後年、菊比古/八代目 有楽亭八雲は当代きっての天才と目されている噺家なのですが、花柳界の実家を出され、噺家として生きていく事になってからは、生真面目な性格も災いし、噺家でいることに悩み続けた時期もありました。

 本人に才能は本来あること、努力家であること、自分を追い込みすぎてしまうとこ、身近にいる天才と自分を比較して焦りをかんじるとこ、知性派であるところ、ある瞬間、自分らしさを掴んで「才能を開花させる」ところは、ハイキューの及川を彷彿とさせます。(性格は全く違いますが)

 菊比古は、噺家としての才能豊かで、自由奔放、豪胆、性格も見た目も育ちも正反対の天才「助六」と、一緒に育ちます。高座に上がれば一番笑いをとり、金遣いは荒く適当なのに、誰からも愛される助六に焦りを感じるのは、当然です。

 生きていくために必死に落語をやっていた菊比古と、元々落語が好きで好きで門を叩いた助六は、純粋に落語を楽しんでいる姿を見ていると、「好きで楽しむ」ことは最強の能力だと確信させられます。

 ですが、後年天才と言われるようになる菊比古も、噺家をやめようと思うほど自信をなくしていた時代があったこと、自分らしさを掴むのに時間がかかって苦悩している様子をみると、決して「天才」ではない努力の人だと分かります。菊比古が芸に悩み、生き方に迷う姿を見ていると、悩み迷うことは、自分が脱皮して生まれ変わる苦しみにも似ていると感じます。

✔「粋」を失いたくない…

 「昭和元禄落語心中」には、随所に「粋」が溢れています。「粋」とは、美意識のことで、心意気、身なりや振る舞いが洗練されていることです。反対語は「野暮」や「無粋」だと言えば、自ずと「粋」とは何かが見えてくるというものです。

 作中では、男と女の描き方も非常に艶っぽく、会話のやり取りもとても「粋」です。芸者のみよ吉(CV:林原めぐみ)が帰ろうとする菊比古に、帰る、じゃなくて「送っていこうか?」と言うのよ、と教えます。促されるままに、菊比古が「送っていこうか?」と言うと、みよ吉は「また来てくれたらね」と言い、笑って「これ、お約束なのよ」と言います。

 お客と芸者の帰り際の「お約束」のやり取り。客もそう返されることが分かっていても「送っていこうか?」と返す、一種の様式美と言えます。お若いお嬢さん方には、まだお付き合いする前の男性からこう言われたら「また会ってくれたらね」と返してみるといいかもしれませんね。

 こういう粋なやり取りができる男女は、もはや作品の中だけ…いや、作品からも消えつつあるように感じます。直接的な表現や台詞、分かりやすさが求められるご時世なので、仕方もないのかもしれません。

 直接的かどうかだけではなく、鬼滅の刃遊郭編のように、「遊郭」というワードだけに反応して苦情を申し立てる人もいます。様々な表現方法に、差別表現だなんだとケチがつけられる事も少なくありません。

 ですが、そういう野暮や無粋の方がまかり通ってしまう世っていうのは、なんとも空しいじゃないですか。建設的なクレームよりも、世の中、言いたいだけのただの文句というのがほとんどです。

 落語でさえも「差別的表現」とクレームつける人はいるようです。こうやって様々な規制が入っていくことで、落語に限らず作品から味が失われ、どんどん野暮になってしまうことが理解できない人がいる事に対して、理解に苦しみます。

 菊比古の言葉で、女性は落語をやる側でなくて、聞く側であってほしいと望むことを、こう言い方をします。「女の人が聞いててくれるからこそ、やってる方は張り合いが出るんだ。寄席なんてのは、浴衣1枚羽織れりゃへぇれる気楽なところ。そいでも帯はお太鼓にして、髪もしどけなく結って、寄席に居てくれりゃ、なんとなく華やぐんだ。香でもふわっと薫りゃ、その辺の芸人はみんな舞い上がって、いつもよりいい芸ができる。女の人ってぇのは、そういうことができる生き物」と。

 何でもかんでも反対を声高に叫ぶツイフェミの方々は、この言葉を聞くと「女性蔑視だ!」と野暮なことを言うのでしょう。これが女性を貴ぶ言葉だとは理解できずに、「お飾りで居させるのか!」などと無粋なことを言うのでしょうね。

 声が大きい人が目立つだけで、決して多数ではないと分かってはいますが、声が大きい分、意見が通りやすい面もあります。そうすると、世の中どんどん無粋に野暮になってしまいかねません。そういう世の中にならないことを願うばかりです…。

 今回も読んでくださってありがとうございます。また、明日も書きますので、読んでいただけるとうれしいです。どうぞ、御贔屓ご鞭撻のほどを…。


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