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朝日新聞が報道した「平和よみがえる南京」の写真特集。⑭(日本軍による虐殺などなかった証明)を紹介します。
南京市民三千数百人の旗行列
南京自治委員会の準備会は、南京陥落後わずか 十日目の十二月二十三日に開かれ、委員長に陶錫 山(とうしゃくさん)が選出された。陶委員長は即日声明を発表した が、それによると、
①日本軍の入城により治安は回 復した。
②我々は速やかな南京の復興と民生の安 定を願う。
③そのためには抗日・容共の不良分子 を一掃して、日本との連繋の下に復興を図る、
と 述べている
朝日新聞が報道した「平和よみがえる南京」の写真特集。⑬(日本軍による虐殺などなかった証明)を紹介します
敵ニハアレド・・・我ガ武士道
次掲の写真は「中国無名戦死の墓」の墓標を書 いている姿。
写真説明は「無名戦士よ眠れ」と題 して
「抗日の世迷ひ言にのせられたとは言へ、敵 兵もまた華と散ったのである、戰野に骸(むくろ)を横へ て風雨に爆された哀れな彼等が、勇士達の目に は大和魂の涙が浮ぶ。無名の敵戰士達よ眠れ! 白木にすべる筆の運びも彼等を思へば暫し渋る 優しき心の墓標だ。」
とある。 (
朝日新聞が報道した「平和よみがえる南京」の写真特集。⑫(日本軍による虐殺などなかった証明)を紹介します。
五色旗の下に《南京復興の足ど り》
写真特集その五
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十三年二月十三日付揭 載の、「五色旗の下に〈南京復興の足どり〉」と題
する、四枚の組写真である。
朝日新聞は一月三日付の新春号に五段抜き凸版 見出しで、「南京・今ぞ明けた平和の朝」と大書 し、「建設の首途を飾り/光と水のお年玉/萬 歳、電燈と水道蘇る」と題した近藤特派員の一日 発の電報を載せている。そのリードの文は次の
朝日新聞が報道した「平和よみがえる南京」の写真特集。⑪(日本軍による虐殺などなかった証明)を紹介します。
手を握り合って越年
写真特集その四
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十二月三十日の新聞掲 載ゆえ、おそらく、二十八日ごろの撮影(占領十 六日目)である。タイトルは、「手を握り合つて 越年《日に深む南京の日支親善》」である。
この写真版には写真説明のほかに、「南京の正月/お餅もOK」という次のような記事が載っている。これまた和やかな駐屯地風景である。
各部 隊の兵隊たちは故国の正月を偲んで門松や鏡
朝日新聞が報道した「平和よみがえる南京」の写真特集。⑩(日本軍による虐殺などなかった証明)を紹介します。
南京は微笑む=城内点描
写真特集その三
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題して「南京は微笑む〈城内点描〉」とある。
十二月二十五日の新聞掲 載ゆえ、撮影は二十三日であろう。やはり、占領 十日目ごろの写真である。
寫眞説明
① 玩具の戰車で子供達と遊ぶ兵隊さん (南京中山路にて)
② 戰火収まれば壊れた馬車も子供達の楽しい遊 び場だ(南京住宅街にて) ③ 皇軍衛生班の活躍に結ばれて行く日支親善
朝日新聞が報道した「平和よみがえる南京」の写真特集。⑨(日本軍による虐殺などなかった証明)を紹介します。
きのうの敵に温情
写真特集その二
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十二月二十二日の新聞掲載ゆえ、二十日ごろの河村特派員の撮 影である (占領八日目)。
タイトルは「きのふの敵に温情《南京城内 の親善風景〉」である。
寫眞説明 ①治療を受けてゐる支那負傷兵
第十三師団参謀長中津三夫大佐の東京裁判で の陳述によると、「南京は十一月下旬より遠 く東南前線の戦死傷者の収容所とな
朝日新聞が報道した「平和よみがえる南京」の写真特集。⑧(日本軍による虐殺などなかった証明)を紹介します。
平和よみがえる南京
写真特集その一
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まず、第一回の写真特集から見てゆこう。
タイトルは「平和甦る南京軍を《皇軍を迎へて歓喜沸く》」である。「十七日河 村特派員撮影」とあるから、南京占領五日目の写 真である。
寫眞説明 ①兵隊さんの買ひ物
占領五日目に早 くも露天商が出て、兵隊が銃も持たないで買物を している。この日は松井軍司令官を先頭に入城式 があった日である。
朝日新聞が報道した「平和よみがえる南京」の写真特集。⑦(日本軍による虐殺などなかった証明)を紹介します。
五回にわたる写真特集
朝日新聞が急角度に中国寄りの醜態を演じはじ め、「親中反日」「親ソ反米」の新聞に偏向したの は、昭和四十年代以降のことであるが、それまで の朝日新聞は、戦前・戦中から終戦直後にかけて、 日本を代表するクオリティー・ペーパーとしての 品位を持つ新聞として、発行部数も首位にあった。
その朝日は、占領直後の南京の情景をどのように 描写し、どのように報道してきたか。そこには
朝日新聞が報道した「平和よみがえる南京」の写真特集。⑥(日本軍による虐殺などなかった証明)を紹介します。
日本人の創作・脚色による”南京大屠殺紀念館”
これまで見てきたように、朝日新聞は、昭和四 十六年以降は気でも狂ったのではないかと思われ るほど、南京に大虐殺が「あった! あった!」 と煽りたてた。教科書に「南京大虐殺」が載るよ うになったのも、昭和五十年からである。その頃 になると、朝日に次いで毎日やNHKなど日本のマスコミや、時代におもねる学者、文化人、教育者がこれに追随し、今日みる反日・
朝日新聞が報道した「平和よみがえる南京」の写真特集。⑤(日本軍による虐殺などなかった証明)を紹介します。
暴かれた本田ルポの正体
しかし、中国側の言い分だけを煽情的に誇大に 記録しただけの「中国の旅」も、化けの皮がはが される時がきた。
例えば本多ルポは、
「撫順炭鉱には約三十の万人抗ができたとい うから、ひとつ一万人としても三十万人になる。 四十年間も日本に占領されていた炭鉱であれ ば、この数字は決して“白髪三千丈”の次元のものでないことが、大石橋の例からも理解でき よう」
と述べ、撫順
朝日新聞が報道した「平和よみがえる南京」の写真特集。④(日本軍による虐殺などなかった証明)を紹介します。
『中国の旅』の影響とその背景
日本国民の多くは、日本は戦争に負けたことでもあり、東條元首相以下七名が戦争の責任を「問われて処刑され、その中に松井大将もいわゆる南京大虐殺」の責任でくわえられた、やむを得ないことかもしれない―――程度の認識であった。
それから約二十余年、人びとの南京事件に関す る記憶もほとんど薄らぎ、忘れられつつあった時、 突如として衝撃的なレポートが朝日新聞に連載さ れた。
朝日新聞が報道した「平和よみがえる南京」の写真特集。③(日本軍による虐殺などなかった証明)を紹介します。
被殺害者数のデタラメ
ご存じのように東京裁判は「偽証罪」のない鼓判で、日本および日本軍の罪悪や悪口はどんなに ウソであろうが、伝聞、作り話のたぐいであろう が、言いたい放題で、決して罪に問われるような ことはなかった。その半面、これに対抗してその 虚妄を否定し、抗議することは許されなかった。
弁護側が提出した反論、反証はことごとく受理さ れず、その却下された書類は八千ページ以上にも お
朝日新聞が報道した「平和よみがえる南京」の写真特集。②(日本軍による虐殺などなかった証明)を紹介します。
大虐殺は作り話『聞き書・南京事件』
俗に「人の口には戸はたてられぬ」と言い、「悪事千里を走る」とも言う。
私は南京戦の翌年の昭和十三年八月、従軍記者として武漢攻略戦に従軍するために、南京に約一か月ほど滞在し、南京の治安状況についてつぶさに視察したことがある。さらに、昭和十七年応召、一つ星の初年兵として上海の中支那野戦兵器廠で訓練を受け、南京、漢口の支廠で勤務し、最後は兵技伍長として無錫の弾