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#真理
コースは学ばなければならないものなのでしょうか?
死によってではなく真理によってこの世を去るコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は学ばなければならないものなのでしょうか?
というならば、それはNOです。
コースを学ばなければならないということはまったくありません。
それは義務(必修科目)ではありません、ということです。
たしかに、コースには「必修科目である」(T-in.1:2)というふうに述べてありますが、そのメッセージはコースを口
コース学習者の私たちが実践でフォーカスしていくべきものとは
コースという霊性の道の特徴的なところコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいく上で、私たちが知っておかなければならないのは、コースは非二元の霊性の道ではありますが、愛や真理について学んでいくようなスピリチュアリティではないということです。
そのことについては、コースのテキストの序文ではっきりと述べられています。
それがどういうことかというと、私たちがしていく実践は、いわゆる、神、
すべてが愛だと知覚されていないなら、そのような知覚になるまで訓練するしかありません
なぜ私たちは学びと訓練が求められているのか?すべては愛です。
すべては完璧です。
あなたもそのままで完璧なのです。
そのままですべてが愛の現れでしかないのです。
いまここにリラックスしてゆだねていればいいのです。
だいじょうぶ、、、大丈夫、、、
というようなことが、ノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリティで語られている内容です。
そして、それは確かに真理を述べているといえます。
スピリチュアルでいう高次元世界とは
幻想は幻想でしかないスピリチュアルでいう高次元世界とは、いったいどういうものなのでしょう?
非二元から見るならば、それがどんなに高次元、高波動なものであろうと、幻想は幻想でしかありません。
それらすべてが神のひとり子が見ている夢にしかすぎないということです。
つまり、それらは本当は「無」なのです。
それが、純粋な非二元の教え(真理)です。
真理から見るならば、この世界の夢を見ていること
非二元とは?そして、非二元を反映した知覚とは?
想念はその源を離れない非二元とは何か?
というなら、「二つに非(あら)ず」ということです。
「二つに非ず」とは、分離していないということです。
それは、主体と客体が分離していないということです。
主体が原因であり、客体が結果あるとするなら、
つまりは、想念はその源を離れてはいないということです。
想念はその源を離れない。
それは、原因と結果は離れないということを意味します。
実践
普遍的な神学は不可能だが、普遍的な体験ならば、可能であるばかりか、必要である
コースは愛の意味を教えることを目指してはいないコース(奇跡のコース/奇跡講座)が非二元のスピリチュアリティ(霊性の道)であるということは言うまでもありません。
ただし、私たちが覚えておかなければならないのは、コースは真理について、愛について探求していくような霊性の道ではないということです。
その学びは、真理や愛について学んでいくわけではないということです。
真理についてあるいは愛について理解
二元性(デュアリティ)と非二元(ノンデュアリティ)
自分と自分以外というものの見方ふだんの私たちは、この世界を認識するとき、自分と自分以外、というふに知覚しています。
自分がいて、自分以外の他の存在がいる、世界がある、というふうにです。
実際のところ、自分は存在しているし、その自分を世界が取り囲んでいるかのように見えているのが、私たちの通常の知覚の仕方だといえます。
そこに見えているのが、いわゆる「二元性の世界」というものです。
そして、そ
ノンデュアリティのスピリチュアリティと『奇跡のコース』のちがいについて
ノンデュアリティ・スピーカーさんたちが語る非二元の教えと、コース(奇跡のコース/奇跡講座)が語っている教えは、本来どちらも同じ非二元の教えであるわけですが、
実際に、コースが教えていることを真に理解するようになるなら、それらは似て非なるものであるということが分かってくるといえるでしょう。
なにせ、コースの教えがとても難解であるがゆえに、その「ちがい」というものが理解されにくい面があるのは事実で
他のノンデュアリティのスピリチュアリティにはないコースの教えの特徴
真理ではないものを見つけ出していくコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は、さまざまな霊性の道の中の一つの道にしかすぎないと言うことができます。
というのも、コースだけに限らず、「非二元(ノンデュアリティ)」「悟り」「真理」に至る(思い出していく)ためのスピリチュアリティ(霊性の道)はいくつも存在しているからです。
ですから、コースについて述べるとき、特別な非二元の霊性の道であると位置付け