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二元性(デュアリティ)と非二元(ノンデュアリティ)

自分と自分以外というものの見方

ふだんの私たちは、この世界を認識するとき、自分自分以外、というふに知覚しています。

自分がいて、自分以外の他の存在がいる、世界がある、というふうにです。

実際のところ、自分は存在しているし、その自分を世界が取り囲んでいるかのように見えているのが、私たちの通常の知覚の仕方だといえます。

そこに見えているのが、いわゆる「二元性の世界」というものです。

そして、そのような捉え方、考え方を「二元性(デュアリティ)」と呼んでいます。

自分と自分以外がある、主体と客体が別々に存在しているという知覚の仕方のことです。

一方、そのような知覚に対する訂正として、

想念はその源を離れない

という原理に基づいたものの見方があります。

主体と客体は離れない(別々ではない)という知覚の仕方です。

自分と自分以外は別々にあるのではなく、一つなのだという捉え方です。

そのように見るなら、もはや「自分」「あなた」という個別の存在というものがなく、それらが全体なる一つ(一なるもの)として見る見方となります。

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)学習者の私たちはそのような見方を修得していくことが求められているということを心に留めておきましょう。

その実践は、「すべては同じ」として見ていく訓練をしていくということです。

なぜ、すべては同じなのか?

というなら、すべてが実在しないもの(非実在)として、いわゆる、どれも等しく幻想として同じであるからです。

それは、何一つたりとも除外せず、例外を設けず、すべてを包含して見るということです。

それによって、私たちは全一なる知覚を修得していくことになります。

とは言いましても、まず、普段の私たちはまったくそのようには見てはいないわけです。

ですから、そこから学びと訓練(実践)をしていくほかないといえるでしょう。

そのようなコースを実践していくうえで知っておくと良いのは、この世界にいる私たちの見方として、二つの見方があるのだということです。

そして、私たちがコースの実践でしていく訓練とは、通常の見方ではないもう一つの別の見方のほう、つまり、「すべてを同じとして見る」ということをしていくということです。

じつのところ、「もう一つの別の見方」というよりも、本当は、そっちの見方のほうがまともな自然な正しい見方なのだということも知っておくと良いでしょう。

自分と自分以外が別々の存在として見えている、つまり、主体と客体が別々のものとして見えている、、、、

その見方のほうが本当はまったくデタラメ(嘘/幻想)の知覚なわけです。

にもかかわらず、私たちはそのデタラメな知覚を信じています。

疑問を抱くことすらありません。

そのデタラメな知覚でもって見ている世界を私たちは現実だと信じているわけです。

それが意味するのは、その知覚しているものすべてを信じなければ、たとえ知覚している世界がどうであろうとも、私たちは平安でいることができるのだということです。

そのとき、私たちはこの世界からまったく自由になるのです。

そして、それは可能なのだと、コースのイエスは教えてくれているのです。

つまり、すべては虚偽(幻想)なのだと真に理解する(悟る)こと、それがコースの学習者の私たちが目指しているものだといえましょう。

それを、コースでは「贖罪」と呼んでいます。

そのための実践的な手段が、「奇跡」「赦し」というものです。

そこで大事なことは、

知覚しているものすべてが虚偽であるのであるならば、

同時に、そこに、真に実在するもの(実相/リアリティ)がある、

ということです。

それは、この世界にいる私たちでは知り得ないわけですが、それを、コースでは、「実相」「愛」「神」「ワンネス」「天国」などと呼んでいるということです。

あるいは、言い方を換えて、それを「非二元(ノンデュアリティ)」とか「悟り」と呼んだりもします。

いわゆる、「非二元(ノンデュアリティ)」「悟り」とは、すべてが「一なるものとしてつながっている一体性(ワンネス)」(T-25.Ⅰ.7:1)であることを悟っている状態のことを言い、真理の探究者やノンデュアリストやコース学習者はそれを目指していると言うことができるでしょう。

そのためには、自分の利害と他者の利害は別々ではない、という知覚の仕方を修得しなければならないということです。

私たちは別々に存在しているかのように見えていますが、それがまったくのデタラメ(虚偽)であるからです。

この世界の夢の中でワンネスを反映した知覚の仕方を学ばなければならないということです。

コースでは、それを「共通の利害」「利害の一致」というふうに呼んでいます。

そして、それを(実践して)生きている者のことを、コースでは「神の教師」と呼んでいます。


神の教師となることを選択する者なら、だれでも神の教師である。その資格はただ一つ、「なぜか、どこかで、自分の利害を他者の利害から離れたものとは見なさないという、意図的な選択をした」ということだけである。(M-1.1:1-2)

奇跡講座/中央アート出版社


逆に、自分と自分以外、つまり、自分がいて自分以外のものがあるというふうに知覚しているならば、それは「非二元(ノンデュアリティ)」「悟り」の視点からはすでに離れて見ていると言うことができます。

そのような知覚の仕方をしているということ自体が、その自分は相変わらず二元性の中にいるということであり、「非二元(ノンデュアリティ)」「悟り」を体現しているとはけっしていえないということです。

それが何を意味するのか?というなら、

たとえ非二元(ノンデュアリティ)について知っていたとしても、分かっていたとしても、たとえ一瞥したとしても、二元性の知覚の仕方をしているならば、非二元の知覚が体現されるまで訓練していく必要があるということです。

要は、コースは、非二元/悟りの知覚を完全に体現していくための霊性の道なのだということを覚えておきましょう。


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