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普遍的な神学は不可能だが、普遍的な体験ならば、可能であるばかりか、必要である

コースは愛の意味を教えることを目指してはいない

コース(奇跡のコース/奇跡講座)が非二元のスピリチュアリティ(霊性の道)であるということは言うまでもありません。

ただし、私たちが覚えておかなければならないのは、コースは真理について、愛について探求していくような霊性の道ではないということです。

その学びは、真理や愛について学んでいくわけではないということです。


”このコースは愛の意味を教えることを目指してはいない。それは教えることのできる範囲を超えているからである。しかし、愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去ることは、確かに目指している。”(T-In.1:6-7)

奇跡講座/中央アート出版社


真理についてあるいは愛について理解していくことがコースの学びにおいて私たちに求められているのではないということです。

コース学習者の私たちはに求められているのは、真理ではないもの、愛ではないものを識別できるようになることなわけで、

コースの学びが深まっていくにつれて、それらをはっきりと認識できるようになっていくといえます。

そういうことでいうならば、

私たちはコースを通して何を学んでいるのか?

その識別法を学んでいるのだと言うことができるでしょう。

いわゆる、

真理か?あるいは、そうではないか?

言い換えるなら、

真理か?幻想か?

というふうに、私たちがコースの実践でしていくのは、それを識別していくことなわです。

それをコースでは、「赦し」「奇跡」というふうに呼んでいます。

要約するならば、

今や自我と同一化してしまっている私たちにとって、真理や愛というものについてはけっして理解できるものではないということ、

ただし、そうではない(真理ではない)ものについては私たちは識別できるということ、

そして、私たちがしていくことは、そうではないものを見つけ出して、そしてそれを取り消していくことなのだ、

ということです。

それを実践していくことによって、”愛の現存を自覚できなくしている障壁”(T-in.1:7)が取り消されていき、愛の現存を自覚できようになるということです。

それが、コースの教義の大まかな全体像です。

何度も申しますが、コースは真理や愛について学んでいく道ではないということを知っておくことは重要です。

なぜなら、私たちは、つい、真理や愛や光といったほうにフォーカスしていってしまいがちだからです。

そうなってしまうなら、もはや、”愛を阻む障壁”を取り消していくこととはまったくちがったトンチカンな実践をしていくことになってしまいます。

何度も申しますが、真理、愛、神、ワンネス、非二元、、、といったものについては、私たちがいくら学んだとしてもそれは理解の範囲を超えており、けっして理解できるものではないということを覚えておきましょう。

むしろ、私たちは、そうではないもの(自我/障壁)について学び、そしてそれを自覚/認識していくことがコースの実践で求められているということです。


”普遍的な神学は不可能だが、普遍的な体験ならば、可能であるばかりか、必要である。このコースは、その体験へと向かうものである。”(C-In.2:5-6)

奇跡講座/中央アート出版社


それが意味するのは、”愛の現存を自覚できなくしている障壁”が取り消されていくならば、私たちは愛の反映に触れていく体験をするようになるということです。

それをコースでは「聖なる瞬間」「ヴィジョン(体験)」と呼んでいますが、それは実践を通して体験されていくものであり、そして実践を通して修得されていくものであるということです。

コース学習者の私たちはそのようなことを体験を通して学んでいくのであり、コースとはそのようなスピリチュアリティ(霊性に道)であるということです。


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