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だって私、もう傷つきたくないの

そんなことを言うような近頃では、なくなってきた。
永遠に恋人なんてできないんだと思っていた頃から数年、けらけら笑える恋人が今はいてくれるし、一生うつなんて治らないし最早うつでさえないのではと思っていた去年から一年、人生で一番生きやすい穏やかで前向きな時間を過ごしている。
だけど、あの頃の苦しさや絶望感をなかったものにして葬るのも、そんなことがあったから今があるとやたら糧にしていこうとするのも、なんだか全部違和感がある。

正直、恵まれている。
仲のいい妹と馬鹿みたいな会話をして楽しむ平日、それなりにいい雰囲気でまわっている会社のチーム、恋人と真剣な会話もふざけた会話もきちんとできて、社外のNPO法人や勉強していることをどうこれから繋げたり経験にしたりしていこうかとわくわくできることも増えた。
これらは私が頑張って手に入れたものというより、偶然の産物だ。
めぐり合わせの結果、今手元にあるものは私をほとんど傷つけない。

だからこそ、「だってあなたにはわからないでしょう」みたいな言葉が怖くなったりする。
身近な他者を亡くしたり、大好きだった人と会えなくなったり、毎日罵倒される環境に身を置かざるを得ない状況だったり、そういう毎日が世界のどこかには存在していて、それは見えないだけで思っているよりも近くに眠っている事実だったりするはずだ。
今恵まれているからこそ自分を保てて今後の人生に目を向けられる私も、何か一つ失ったら簡単に壊れて崩れてしまうと思う。
それがなんとなくひっかかっていて、今ある日常に直接的に関係するわけではなくても、どこかで誰かの状況を鑑みずに何かを言ってしまうのではないかということが、今一番怖いことだと、感じている。

ここ1年間のまとめ動画をつくろうとカメラロールを見返していたら、去年1年間の写真を見ることすら辛すぎて、ただひたすらに楽しい動画をつくるはずが気が付いたら泣いていた。
あの頃の感覚も、感情も、生活も、今はあれがあってこそ再構成できたことが多いとは思いつつも、もう一度経験なんて絶対したくない。
できることなら穏やかに幸せに、傷つくことなく暮らしていきたい。
その状態をキープし続けるためにも、何も起こらないで欲しいとすら思ってしまう。

私は誰かの苦しみを100%理解することはできなくて、同じ苦しみを突き付けられたときにその目の前の相手と同じだけのこともやれるかわからなくて、でも誰かの助けにはなりたい。
それって、無責任にもなってしまうだろうから。
あぁでもそういうことがもしかしたら、「よく頑張ってきましたね」を心の底から言える明日に繋がるだろうか。

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