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10年見比べ!秦氏「月読神社」松尾大社摂社は「聖徳太子神社/月延石」磐座あり

701年に秦氏が創建した「松尾大社」から徒歩5分に壱岐氏の「月読神社」。京都でも古社で、梅宮大社とセットで子授かり最強説の神社。この独特の雰囲気と磐座に注目!!!
 今は松尾大社の境外摂社だが、元々は単独の大社で、桂という地名はこの神社から来ている。代々、松室氏が世襲祠官で、秦氏の支配を受けて松尾大社に代々奉仕していたこともわかっている。ちなみに摂社・末社に松尾大社の主祭神の父がいるので、大事にするのはあたりまえか!!

 あれっ??2024年社殿背後に人の手が入って整備されていた?崩れた?なんで?雰囲気が若干崩れた感があるのだが・・・。ということで、昔も含めて書き残そうと思ったので、松尾大社のNOTEから分霊した。

 ここに来たら南に歩いて、神社仏閣すればよいかと!

変更履歴 ※変更点のみ参照は日付で検索してください。

  • 2024/01/18 初版


▼HP

本宮「松尾大社」は次の通り。

本宮の私のNOTEは次の通り。

▼松尾大社⇔月読神社境内と徒歩ルート

京都市西京区松室山添町15番地

▼祭神

アマテラスの弟「月読尊(つくよみのみこと)」

▼見どころ

 松尾大社を南に小道を下ると現れます。この神社は穴場で、よい神社の空気感があります。『山城国風土記』逸文によれば、月読尊が保食神のもとを訪れた際、その地にあった桂の木に憑りついたといい、「桂」の地名はこれに始まるという説話が記されている。
 阪急電車の駅や地名に「桂」があるが、ここ発祥のようだ!!

 以降の写真で日付がないのは2010年代と思ってください。

2024/01/05

 社務所はセルフサービスです。ただし、御朱印は日付がきっちり書かれています。松尾大社の方が書いているんでしょうね。律儀だし、境内が奇麗に整頓されているのも納得だ。

2024/01/05

→境内へ

2024/01/05
2024/01/05
2024/01/05

 5世紀の任那に行くときツクヨミに言われここに祭り、壱岐氏が宮司になった。秦氏が壱岐氏を連れて来たということだろうか?少なくとも5世紀末から壱岐市からここの遷座させたということは間違いないとのこと。

2024/01/05
2024/01/05

→拝殿・本殿と由緒など

 本殿背後は松尾山の杜が広がり、霊験あらたかな雰囲気に包まれていたのですが、2024年、なくなっている・・・。すっきりしている・・。

2024/01/05
2024/01/05
2024/01/05

 鬱蒼としていたのですが・・これが好きだったんですが・・。

 上が2024年前の写真なのだが、なんか境内に入ると明るくなった気が・・次の写真です。背後の山が整備されている~・・・。

2024/01/05
2024/01/05
2024/01/05

公式HPを参考に箇条書きでこの神社の創始を纏めてみた。

  • 487年、創建

  • 『日本書紀』に、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)という者が勅命を奉じて任那に派遣されることになったが、月神が或る人に憑依し「我が祖、高皇産霊(たかみむすび)、天地を熔造(ようぞう)するの功に預かる。宜しく民地を以って奉れ。我は月神なり。若し請に依り、我に奉らば、当(まさ)に福慶(ふくけい)おらむとの託宣があった。

  • これを受けた朝廷は月神の請をいれて山背国葛野郡の「歌荒樔田(うたあらすだ)」の地を奉られた

  • 月神の裔と称する壱岐の押見宿祢(おしみのすくね)が神社を造営

  • その後、押見宿祢の子孫は世襲祠官として永く神社に仕え、本貫地の壹岐(伊岐)を氏の名とした

  • この伊岐氏は、後に壱岐国の県主(島造)となった名族で、押見はその祖に当たる人

  • 壱岐は地理的に大陸に近い関係で、壱岐氏は早くから中国の亀卜の術を我が国に伝え、これを中央に伝播んした氏族の一つで、神祇官にあって卜占の事に関与し卜部氏を名乗っていた

  • 『山城国風土記』には「月読尊、天照大神の勅を受け、豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)に降りて、保食神(うけもちのかみ)のもとに至りましき。時に、ひとつの湯津桂の樹あり。月読尊、すなわちその樹によりて立たしましき。その樹のあるところ、今、桂の里となづく」

  • 856年、水害の危険を避けるため、現在の松尾山麓に遷座

  • 906年、正一位・名神大社になる

  • 1877年、松尾大社の摂社

 って、阿閉ということは伊賀一宮「敢国神社」との繋がりを感じる。この神社も秦氏の影があるんですよね。そして、卜部氏って平安京の春日で吉田神道の中心「吉田神社」も掛かってくる気がするのだが。やっぱ、秦氏の影響って大きかったのかな。

 元に戻ります。

→御船神社

 本殿左の摂社末社へ!まずは「御船神社」ですね。松尾大社の「神幸祭」で、渡御の道中安全を祈願する祭儀が行われている。
 それはなぜかというと、祭神「天夷鳥命」は松尾大社の祭神・大山咋神の父だからであろう。お父さん行ってきます!ということなのだろう。

2024/01/05
2024/01/05

→腰掛け陰陽石

三船神社と本殿の間には「腰掛け陰陽石」です。

2024/01/05
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 磐座好きは次のじゃらん旅行記をどうぞ!そのうちNOTEに載せ替えます。

 では本殿右へ!

2024/01/05
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→聖徳太子社

 「聖徳太子社」です。確かに、聖徳太子=秦河勝がパトロン=秦氏=松尾大社なので、分かる気がする。公式HPや由緒では、「月読命を崇敬された聖徳太子の徳を称え祀ったと言われる。」となっている。

2024/01/05

葛野郡一帯は早くから、帰化族の秦氏の勢力圏であったから、当然当神社も松室氏も秦氏の厚い庇護を受け親密な関係にあった。このことは、当社の世襲祠官であった松室氏が、秦氏の支配を受けて松尾大社に代々奉仕していたことでも明らかである。

松尾大社公式HPより
2024/01/05

→むすびの木、「月延石」は神功皇后ゆかりの石

 境内に神功皇后ゆかりの安産信仰発祥の石「月延石」がある。聖徳太子社の右です。

2024/01/05

 「戌の日」に安産の特別祈祷が行われ、祈祷後「安産祈願石」に名前を書き、月延石の前にお供えしてお参りをするという風習が残っている。
 白いのが「祈願石」で社務所に置いてあるので、そこでGETしましょう。

2024/01/05

神功皇后が筑紫に滞在された際、腹を撫でて安産されたという石を月読尊の神託により、舒明天皇が伊岐公乙等を筑紫に遣わして求められ、当社に奉納されたという伝説(擁州府志)がある。
安産の神として今もその霊験を慕うて参る人が多い。

公式HP
2024/01/05
2024/01/05

 この石は元は筑紫にあり、神功皇后が応神天皇を産む際にこの石で腹を撫でて安産し、のち舒明天皇の時に月読神社に奉納されたらしい。
「戌の日」に安産の特別祈祷が行われ、祈祷後、名前を書いた「安産祈願石」を月延石の前にお供えして安産を祈願するとよいそうな。梅宮大社でまたいでここに来れば完璧かな。

 昔の写真を2枚貼り付けておきます。戻らないかな・・。しかし、じっくり見ると手前の小さな石3つの並びが違うな・・これ毎年変わるのか?

→最後に境内

 ということで、この月読神社は現在は松尾大社の境外摂社だが、それは江戸時代からで、元々は、単独で壱岐氏が守っていた神社である。

 時代とともに神社淘汰(合祀)していくが、京都は大きな神社がそのままの形で「境外摂社」として歴史をつなぐところが多いので、そういうところも知っていれば、見え方が違うのかなと思う。

2024/01/05

▼メディア情報

これ以降は本NOTEの下にあるコメント欄で追記します。

▼旅行記

▼セットで行くところ


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