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歴史の小箱

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自作記事のうち、歴史に関わるもので特に読み応えのありそうなものをまとめました。
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記事一覧

歴史を輪切りにすると……

歴史を輪切りにすると……

我々が学ぶ歴史は多くの場合、その国の歴史、例えば日本であれば日本史である。これは一国史、ナショナル・ヒストリーであり、国の成り立ちから現在にいたる歴史の流れを学ぶことができるが、国際交流は等閑視されがちである。一方、世界史も学ぶ機会があるが、こちらは日本対世界という対立概念でもあるのか、日本が切り捨てられている。最近は歴史総合という新しい歴史科目が作られているが、扱うのは近世〜近代であり、歴史の流

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世紀の転換点について

世紀の転換点について

世紀の転換点というのはなにかと世情不安が起こりやすいようだ。ヨーロッパを例に取ると、18世紀から19世紀への変わり目にはフランス革命が起き、その混乱がヨーロッパ全土に波及する中でナポレオンが台頭する。その後は、ナポレオンが失脚するまでヨーロッパは戦争の時代になる。

次に19世紀から20世紀への変わり目には、ヨーロッパ大陸では普仏戦争が起き、イギリスでは切り裂きジャック事件が世間を震撼させた。この

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「今起きていること」を研究する難しさ

「今起きていること」を研究する難しさ

『太平記』という軍記物語がある。後醍醐天皇の即位から室町幕府三代将軍足利義満のもとで細川頼之が管領になるまでの約50年間を描く。作者は不明だが、僧恵鎮、足利直義、僧玄恵が成立に関わったと取れる記録がある(『難太平記』)。
『太平記』の内容はおおよそ三部に分けられ、第一部は後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒、第二部は建武の中興の失敗から後醍醐天皇の崩御まで、第三部は観応の擾乱から二代将軍足利義詮の死、義満

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日本のお金小史

日本のお金小史

日本において貨幣が登場したのは飛鳥時代後期、天武天皇の治世。奈良県飛鳥池遺跡の発掘調査で一躍有名になった「富本銭」である。『日本書紀』天武12年の記述にある「今より以後必ず銅銭を用いよ」の銅銭は、この富本銭を指すと考えられる。ただ、この富本銭はどの程度貨幣として流通したかは定かではない。

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みやこ(京・都)の変遷

みやこ(京・都)の変遷

今回は都城の変遷について書いてみたい。
飛鳥京、大津京と呼んでいるが、これはどちらも誤りである。なぜかというと、どちらも条坊制を伴う市街地を持たないからである。
初めて造営された京=都(みやこ)は藤原京で、現在の橿原市に所在する。この都は短命で、わずか16年で廃止される。その理由は諸説あるが、大規模河川から離れていて利便性が悪かったことと、北が低く南が高い地形のため、汚水が北=宮城のある方へ押し寄

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偽書・偽文書考

偽書・偽文書考

近年、椿井文書という古文書群が物議を醸している。馬部隆弘先生によると、江戸時代、現在の京都府木津川市の住人であった椿井政隆が一人で作成した大量の偽文書だそうだ。これは長らく偽文書と考えられておらず、馬部先生の研究で一気に日の目を見た。信頼に足る文書として市史編纂事業などで活用され、まちおこしの典拠となるなど被害は大きい。これがなぜ今まで知られてこなかったかというと、椿井政隆の周到さにある。彼は多く

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邪馬台国と卑弥呼に関する私見

邪馬台国と卑弥呼に関する私見

個人的に邪馬台国は大和・纒向遺跡だったと思う。その理由としては、纒向遺跡が同時期としては他に類を見ない規模と構造を持っていること、定型化した前方後円墳の発祥地であり、後のヤマト王権との連続性が見られること、などが挙げられる。

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続・邪馬台国と卑弥呼に関する私見

続・邪馬台国と卑弥呼に関する私見

中国史研究の界隈では、政治的理由から邪馬台国の位置が意図的に南へずらされているのでは、と考えられているようである。そうなると、魏志倭人伝の里程(日程)表記は信用できなくなる。ただ、伊都国以前と以後で表記が違う(伊都国以前は里程、以後は日程)ところから、魏の使節は伊都国までは行ったと考えられる。それ以前の日程は使者の報告があるのでさすがに改竄できないだろうし、以降の日程も無理に引き伸ばしたり縮めたり

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天皇の実在はどこまで確かと言えるか

天皇の実在はどこまで確かと言えるか

日本の皇室の系譜は一体どこまでが確かなのか、考えてみよう。
手がかりになるのは継体天皇である。現状、実在が確定している最初の天皇は継体天皇と言っていい。継体天皇が生きたのは6世紀初頭。墓は大阪府高槻市の今城塚古墳が有力視されている。そこから類推すると、応神天皇以降の天皇は実在した可能性が極めて高い(ただ、顕宗〜武烈天皇は実在があやふやで、応神天皇の系譜は清寧天皇で途絶えている可能性もあると思う)。

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記紀の記述と春秋二倍暦説

記紀の記述と春秋二倍暦説

記紀(古事記と日本書紀の総称)によると、雄略天皇以前の天皇について、多くが100歳以上という人間離れした長寿だったことにされている。これはおそらく、寿命が引き伸ばされた事によるだろう。

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遺跡の立地から見えるもの

遺跡の立地から見えるもの

以下は、私が仕事や趣味で遺跡の立地を調べた結果に基づく雑感である。
日本では大規模な開発や公共工事に先立って、発掘調査が行われる。日々、日本のどこかで発掘調査が行われていると言っても過言ではない。発掘調査が行われるのは、工事用地が「周知の埋蔵文化財包蔵地」すなわち遺跡の範囲内だからだが、時々、今まで知られていなかった遺跡が発見されることがあり、開発地域が広範囲に及ぶ場合は、遺跡の範囲外であっても「

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前方後円墳の正面はどこ?

前方後円墳の正面はどこ?

前方後円墳という名称は、江戸時代に古墳(陵墓)の研究をした蒲生君平が、円と方が組み合わさった墳形を宮車(牛車)に見立てたことに由来する。しかし、古墳時代にはまだ牛車はなかったので、この由来説は誤りである。そのため、前方後円墳が何をモチーフにしたものか、諸説頻出するとともに、正面がどこなのかが議論の的になってきた。

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円筒埴輪の役割

円筒埴輪の役割

古墳は今でこそ森になっていたり、果樹園等に転用されていたりするが、造られた当初は、段築、葺石、埴輪を伴う人工の山であった。兵庫県五色塚古墳、京都府私市円山古墳など復元整備された古墳を見ることで、往時の姿を想像することができる。

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群集墳

群集墳

日本の古墳の総数はコンビニエンスストアより多いともいわれる。そのうち、小規模な古墳が数十基〜数百基密集して造られているタイプの古墳群を群集墳といい、古墳の大部分を占める。初期の群集墳は低丘陵や尾根上に立地し、後期の群集墳は山奥の尾根筋に立地する特徴がある。多くの場合、形状は円墳だが、前方後円墳が含まれることもある。おおよそ5世紀末から増え始めるが、多くの場合、尾根ごとに支群が形成され、狭い空間に折

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