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まどろみ天使
2024年6月29日 15:27
(過去作)「何処にゆけば苦しみを愛せる」*1本当の意味で終わりのない終末への旅立ちだった。死のうと思い始めたのは、しかし、この一節に出会った後からだったと思う。そして今も、死のうと思っている。小学生の頃、随筆家になりたいと思っていた。受験勉強でかなりの量の随筆を読んだ。しかし「これ位なら今の私にも書ける」と常に思っていた。そのうち小説家になりたいと思った。だがどうしても書けなか
2024年6月2日 14:08
4月30日投稿「感受性を殺してでも生きるべきか」の続きである。私が10代後半から30代前半まで苦しかったのは、単純にストレスなどによる抑うつ状態だったからではない。私は空や雲や風、音楽などの芸術作品、総じて主に美しいものに触れると、味覚を除く五感がめいいっぱい開き、それを自己の中に留めておきたくて、でもそれができずに、体中から、感覚で受け取ったものがあふれ出して、抱えきれないことによって、
2023年8月28日 10:58
梶井基次郎の『檸檬』(短編集)を久しぶりに再読。最近は読むペースが格段に落ちたことに加え、つい軽めの本に流されている。久々に文学作品に触れたよろこびは大きい。最後に「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」という冒頭で有名な『桜の樹の下には』が収録されている。私は主に10代から30代前半、詩を書くことで生き延びてきた部分もあったが、桜という題(あるいはモチーフ)で詩を書きたいと思いながら結局書
2023年7月30日 15:50
手のひらを見つめるとき、そこには存在の蓋然性を認めずに済む。つまり、猜疑の余地なく、生きていることを再確認できる。 しかし鏡の中に認めるものは異なる。鏡の中では、私はこの肉体を自分の一部あるいは自分自身だと思えない。顔を見るのは尚更危険である。私の瞳は私の瞳を映しているではないか。なぜに自分の瞳を自分で見る必要があろう。 人と人も向き合うべきか。しかし幾度も瞳の交換をして何を得るのだろうか
2023年7月11日 12:33
コーヒーを飲み始めたのは、高校生の時だ。当初は冬でもやみくもに、無難なアイスコーヒーを注文しては、シロップとミルクをたっぷり入れて、それでいながらコーヒーを飲む自分に悦に入っていた。 すっかり大人になった私は、喫茶店と、煙草と、本格的な珈琲を実に好むようになった。既に味の違いも分かるようになり、私は苦味とまろやかさの絶妙なバランスのとれた、マンデリンを愛するようになった。 やがて妹が結婚し、