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【エッセイ】見つめる先にあるもの


 手のひらを見つめるとき、そこには存在の蓋然性を認めずに済む。つまり、猜疑の余地なく、生きていることを再確認できる。
 しかし鏡の中に認めるものは異なる。鏡の中では、私はこの肉体を自分の一部あるいは自分自身だと思えない。顔を見るのは尚更危険である。私の瞳は私の瞳を映しているではないか。なぜに自分の瞳を自分で見る必要があろう。

 人と人も向き合うべきか。しかし幾度も瞳の交換をして何を得るのだろうか。じっと見るものではない。その後に何が残るというのだ。共に歩みたければ、対面するのではなく、同じ方向を見つめて歩くべきである。

 映画製作の手法はその進歩とどまることを知らない。しかしどうしても一つだけ、できないことがある。「見つめ合う二つの視線を同時に映すことは決してできない」ということだ。しかしこのことは映画の負の面を表してはいない。何故なら映画製作において最も重要なことは、「カメラの向こうに何が映されているか」ということだからである。

 初めて父に「自殺を考えたことがある」と言ったとき、「脅しているのか」と厳しく叱咤された。父は至って温厚な人間である。
 そんな父が、実は私と心中しようと考えたことがあると、後に吐露した。私が高校生の時分、授業中泣き出して止まず、父が車で迎えに来た。帰りの道すがら、車で突っ込もうと考えていたらしい。「そうすればおまえはもうこれ以上苦しまずにすむ」

 車中では無論、隣り合って同じ方向を向いて座っていた。しかしそれ以上の深い意味をもって、父はそのとき私と同じ方向を見つめていたのだ。そこに私は真の愛情をみた。もしそのとき父が私と「向き合って」いたら、もしくは父が私の方だけを「見つめて」いるだけだったら、心中などという考えには及ばなかったであろう。私は自分を殺そうとした父の愛の深さを知った。

 見つめる先にあるものは、私達の意識の方向性を示しているのである。

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