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【エッセイ】黄昏の喫茶店

 コーヒーを飲み始めたのは、高校生の時だ。当初は冬でもやみくもに、無難なアイスコーヒーを注文しては、シロップとミルクをたっぷり入れて、それでいながらコーヒーを飲む自分に悦に入っていた。
 すっかり大人になった私は、喫茶店と、煙草と、本格的な珈琲を実に好むようになった。既に味の違いも分かるようになり、私は苦味とまろやかさの絶妙なバランスのとれた、マンデリンを愛するようになった。
 やがて妹が結婚し、子供ができて、両親と私は毎週のように日曜には彼女の家まで子供の顔を見に行くようになった。そこは学生街で、ここかしこに喫茶店があったが、私はある日一つのとても狭い喫茶店の扉を開けた。
 はじめにブレンドを注文する。冷めても酸味が出ることはなく、かなり本格的な豆を使用し、焙煎具合も程よく、実に丁寧な一杯が出来上がる。早速お気に入りの店になった。次からはマンデリンを主に頼み、一杯ずつゆっくりと堪能した。この店は、どんな時間帯でも、なぜか夕暮れの雰囲気が漂っていた。
 時が流れ、妹夫婦は別の土地に家を構え、両親と私がこの街を訪れるのも最後となる日がきた。
 詩作が好きだった私は、一度も口を利いたことがなかったマスターに、おいしい珈琲のお礼として、詩を書いた。寒い日で、指は凍えそうで、文字はゆがんでしまった。店内はいつものように、夕暮れだった。照明でも、煙草の煙によるのでもなかった。あるいはそれは、いつも私自身がなんとなく寂莫とした気持ちでいたからなのかもしれない。あるいはまた、マンデリンのほのかな苦味と香りが、夕暮れの正体だったのかもしれない。
 店を出る前、詩を書いた紙をマスターに手渡した。二人きりだった。私は自分の心の反映からか、「さみしくないですか」と聞いてみたくて、それでもやっと我慢して、「ごちそうさま」と言って、重い扉を開けた。

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