親ガチャと天才

親ガチャ。
子供は親を選べない。
それは正しいと思う。
だけれども、親だって、子供選べない。
果たしては、それはどちらが不幸なのだろう?
どちらも不幸か?
けれど、上流の汚れが下流に流れ落ちるのもまた確実な話。
その汚濁を浄化する方法を知っている者もいれば、一生泥水の中で苦悩に苛むしかない者もいる。
世の中平等ではないし、それこそ公平でもない。
人間の知能には限りがあり、知能が良いから、汚濁を浄化できるわけでもない。
天才は、どんな状況でも壁を打破する。
だって、その人物は天才で特別だから・・・。
だけど、誰だって特別じゃないか。
代わりなんていないんだ。
だから、誰かに必要とされるはず。
誰かに必要とされることが幸せなのか?
確かに、一人一人は特別だ。同じ人間は誰一人いない。同じ環境に育っても、異なる人間が育つ。双子であっても、どこかしらは違うはずだ。いや、そうであろうと人間は努力する。
だが、特別であることと、必要とされることはまた違う。
君の上位互換は、世の中にたくさんいる。
そんなこと、わざわざ言わなくても良いのに。
果たして、どれが幸運で、どれが不幸なのだろう?
何も知らず生きるべきか?
それとも、現実なんてものを、ただ見せつけられて、ただ生きるべきか。
個人でコントロールできるものは決まっている。
生まれてから、コントロールできることなんてほぼない。
結局は環境?
だが、それを打破できる人間もいる。
それはなぜ?
親もまた、その親がいる。
全ては連鎖し、流れ着く。
天才も、たかが人であることに変わりはない。刺されれば死ぬ。
ただ少し、何かが壊れているだけだ。
安心して、何かに苛まれることは、悪ではない。それはただの情景。流れゆく景色でしかない。
けれども。
剣城琴音は、確実にその世界で、天才の部類にいた。


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