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『黄金の法』第5章8節「内村鑑三の信仰」 {uchimura-kanzou,shinkou}【朗読】

どうも、こんばんにちはようす。丸々です!ヽ(*´ω`*)ノ((ヾ(*ゝω・*)ノ(*´ω`)ノ≡・。゚・。・⊃

今回は、【 『黄金の法』感想ブログ 】の続きに入りましょう!
前回の概要はこちらになります。

今回は、第5章の8節(※p300-p306)の前回の続きから述べます🌤
それでは、参りましょう!!キタ ━━━ヽ(´ω`)ノ ━━━!!





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 話を日本に転じて、近代日本に現われた預言者として、まず、内村鑑三{uchimura-kanzou}(1861年〜1930年)を挙げておきたいと思います。 内村鑑三は、明治・大正・昭和と三代に渡って活躍したキリスト者{-sha}で、日本にキリスト教を根づかせ、その思想的高みへと導いてきた第一人者だと言えるでしょう。

 彼は、江戸{edo}末期に高崎藩{takasaki-han}(群馬県)の下級武士の家に生まれます。1877年、札幌農学校に入学。クラーク博士{-hakase}の遺風{ifuu}に感化され、キリスト教の洗礼{senrei}を受けたのです。この農学校の同期として、新渡戸稲造{nitobe-inazou}がおりました。1884年からの4年間、彼は、アメリカのアマースト大学に学びます。帰国後、第一高等中学校講師となり、歴史の授業を受け持ったのですが、教育勅語{kyouiku-chokugo}に対する敬礼{keirei}を拒み{koba-}、いわゆる不敬事件{fukei-}によって、免職となりました。

 その後、フィレンツェを追放されたダンテのごとく、京都、大阪、熊本などを流浪{rurou}。1897年には、「萬朝報」{yorozu-chouhou}の英文主筆{-shuhitsu}となったのですが、やがて、非戦論を唱えて{tona-}、同社を退きます{shirizo-}。「東京独立雑誌」{tokyo,dokuritsu-zasshi}を刊行して以後は、自宅のある柏木{kashiwa-gi}の里{sato}を拠点{kyoten}として、「聖書之研究」誌{seisho-no-kenkyuu-shi}を出し続けました。晩年は、「キリスト再臨運動」{-sairin-}を起こし、全国各地で講演会を連続して開きます{hira-}。主著として、『基督信徒{christ,-shinto}のなぐさめ』『求安録{kyuuanroku}』『余{yo}は如何{ika}にして基督信徒となりし乎{ka}』などがあります。

 私は、近代日本に、内村鑑三のように偉大な精神を持った人が現われたことを、 誇り{hoko-}に思っております。彼は、もちろん、キリスト教系の霊です。ですから、その目的も、キリスト教的信仰を日本の地に広げることにあったことは、明らかなのですが、彼が遺した{noko-}遺産のなかには、それ以上のものがあります。

 まず第一に、内村鑑三は、「無教会主義」という考え方を打ち出しました。ヨーロッパでは、マルチン・ルターが「人の義{gi}とせらるるはその信仰のみによる」として、聖書中心の信仰を唱えましたが、カトリック教会制度に対抗して、プロテスタントの教会制度をつくり出してしまいました。しかし、内村鑑三が行なったことは、もっと徹底しております。すなわち、まさしく、信仰のみの信仰を説き、自らの良心と神との直結ということを重視したのです。

 第二に彼は、偶像崇拝的なものの考え方に対して、痛烈な一撃を加えております。それは、たとえば、教育勅語という「モノ」に対して、クリスチャンたる精神の独立を守るために敬礼をしなかったという一事{ichiji}にも要約されていると思います。もちろん、この事件に対しても、さまざまな考え方があるでしょう。クリスチャンだからといって、日本人の尊敬を集めているものに対して敬意を表さない{hyou-}というのは、それ自体が、逆の意味での形式主義だとの批判もあるかもしれません。また、内心{naishin}の自由は、あくまでも内心の自由であって、外見上は大人{otona}の態度をとっていればよいという見方もできるでしょう。しかし、私は、このときの内村鑑三の姿に、偶像崇拝のバアル信仰と戦った預言者エリヤの姿を二重写し{nijuu-utsushi}のように見るのです。

 第三に彼は、民族と宗教の関わり方{kaka-}に対して、ひとつの方向を与えていると思います。 札幌農学校へ入学するために、札幌に来た若き内村鑑三は、当初、キリスト教信仰を不愉快{fuyukai}な目で眺め{naga-}、札幌神社で、「このいまわしき邪教{jakyou}を神国日本{shinkoku-}から打ち払い給え」と祈っているほどです。しかし、ひとたび彼がキリスト教の信仰に目覚めてからは、「二つのJ 」に仕える{tsuka-}決意をしております。二つのJとは、イエス(Jesus)であり、日本(Japan)です。

 彼の墓碑銘{bohimei}には、

 「我{ware}は日本のために、

 日本は世界のために

 世界はキリストのために

 そして、すべては神のために

という内容の英文が刻んで{kiza-}あります。これは、彼の思想的な発展、キリスト者としての内心の信仰と、国家的、世界的使命とを弁証法的{benshouhou-teki}に止揚{shiyou}する立場を雄弁{yuuben}に物語っていると言えるでしょう。

 第四に内村鑑三は、社会正義ということを掲げて{kaka-}戦ったクリスチャンでした。それは、日露戦争{nichiro-}に対する非戦論や足尾銅山{ashio-douzan}の鉱毒事件{koudoku-}に対する痛論{tsuuron}、黒岩涙香{kuroiwa-ruikou}や幸徳秋水{koutoku-shuusui}とともに理想団を結成したことに表われております。

 内村鑑三にも、もちろん性格的な欠点はありました。たとえば、妥協{dakyou}を許さぬ独立不羈の精神{dokuritsu-fuki-}は、彼をキリストの使徒{shito}としての「鉄の柱」にはしたでしょうが、彼を偉大なる大成{taisei}の人、完成の人とはしませんでした。彼に常につきまとっていたのは、「独立」「自由」、そして、「孤独」だったのです。また、キリスト教的受難礼賛{-junan-raisan}の気持ちがあったことも、彼の人生に多くの不幸が彩った{irodo-}理由のひとつだと言えます。内村鑑三は、旧約の預言者エレミヤの再出でした。彼の弟子の矢内原忠雄{yanaihara-tadao}ペテロの再出であったように、彼らは、日本にキリスト教を広めるために出た高級霊だったのです。

 内村の限界{genkai}を一点つけ加える{kuwa-}とするならば、無教会派とは、教会を否定{hitei}するのではなく、教会のない人々の集い{tsudo-}だったのですが、「無教会」を強調することが、その後の組織的発展を妨げる{samata-}こととなったと考えられます。
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これが第5章8節の内容です。

まとめに入ります。

日本でキリスト教を広めた伝道師のひとりであり、教育勅語を廃して戦った偉人であることがよく分かります (^^♪

次回もお楽しみに✨





█▓█▓█▓次回予告▓█▓█▓█

✅ ブログでは、今回の参考経典『黄金の法』を、第5章から最後第6章まで、節分ごとに解説していく。
✅ 経典(kyouten)では、『黄金の法』第5章【愛の押し寄せる時】9節「谷口雅春の生命の実相哲学」{taniguchi-masaharu,seimei,jissou-tetsugaku}(※p306-p312)から始める(๑•̀ •́)و✧


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fっということで、いかがでしたでしょうか、??( ,,>ω•́ )۶
ご精読ありがとうございます!!✧*。٩(ˊᗜˋ*)و✧*。
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なお、「『黄金の法』myブログ感想講義」の今回の内容につきましては、以下を参考文献としてマス。 (o'∀')ノ。+。゚☆゚。+。ヽ('∀'o)


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