見出し画像

レポート 【報告会7/16】一橋大学アウティング事件

一橋大学アウティング事件の報告会(裁判経過報告と共に考える集い/大学への問いかけ)

参加フリーも席数は180程と先着制。
開始時刻30分前から開場で、席には疎らで50余名程も、開始時刻には100名近くそれ以上が大挙した。
私が、参加するにあたって、問題点(私が個人的に知りたいと考えたもの)を列挙した。以下12点で、内容の被るものもあるだろうか。

-報告会とは何かHOW
-事件概要
-裁判概要
-裁判意義目的
-アウティングとは
-大学スキャンダル
-大学自治や本来の価値とは
-誤りは何か
-否認する大学対応
-何故明大GF祝日開催か
-主催とは共催とは
-誰VS誰か?

問題の質や内容によっては、参加して得て感じた、私なりの答えも重複する部分は否めないが、以下に書きました。

アンサー

〜争点整理をメインに弁護士や代理人などの関係者が詳細に赤裸々に、冷静に時に熱量を込めて口頭説明。テーマに近しい今日識者らも登壇して、切り口を持って報告会へ厚みをもたらす。
→報告会とは何かHOW

〜一橋大学アウティング事件→事件概要
被告同級生とは和解、大学とは係争中
→裁判概要

〜アウティング=不法行為、大学と相談員や教授ら一連の対応は不適切で責任放棄、今後の社会へ指針となるターニングポイント→裁判意義目的

〜日本においては、個人情報(ここでは、普段当人が隠している性的指向など)を同意なく第三者に口外(=暴露)すること。カミングアウトではない
→アウティングとは

〜ここ最近では記憶に新たかな、日大アメフト部・東京医科大学裏口入学賄賂又はリスト・至学館大学パワハラ又は会見・その他集団強姦及びレイプ、これらは個人的に思い浮かぶ全体の一例に過ぎない。今般の「一橋大学アウティング事件」も世論で共有され取り上げられるべき重大問題である→大学スキャンダル

〜安全安心に勉学に励む環境を提供すること、ここでは、責任として「教育環境配慮義務」による一般的な取り組みをするべきである。
→大学自治や本来の価値とは

〜アウティング行為、大学関係者の一連の不適切な対応→誤りは何か

〜亡くなった翌日には両親に、情報開示を拒否。大学側は、「突発的な自殺行為によってもたらされたものであって」「人知の及ぶところではない」と主張。→否認する大学対応

〜原告側の証人として、陳述書を裁判所を提出したのは、被害学生の両親と妹、そして、明治大学の鈴木賢教授(は、週刊誌によるアウティングの過去を持つ)。裁判所は、証人として鈴木教授を除く3名を採用した
→何故明大GF祝日開催か

〜被告大学とは和解に至っていない。原告側の鈴木教授が明治大学所属(・北海道大学名誉教授)→主催とは共催とは
被害学生のご家族(御両親と妹さん)=原告VS被告(アウティング加害学生(→和解)・一橋大学(大学院・ハラスメント相談室スタッフ・教授)→誰VS誰か?

アンサー、以上

私は、一橋大学大学院を受験していた関係もあり、この一橋の文字には常に気をかけていた。しかし、このアウティング事件は2015年夏に起きていながらも、受験前に知ることができたにもかかわらず、そう認識するに至らなかった。情報が表向きになることができない性質でもあったのだろうか、何にせよ、大学全体の問題意識や危機意識が希薄である代わりに、隠蔽体質は色濃く見えざるを得ない。

そして、私個人の話をすると、大学院受験は失敗した。それもあってとか、そうではないとか、そこに執着はすることなく、この一連の事件に対しては、もっと知られるべきであって、世論に広く伝わるべきで共有されて議論を深めて、社会全体の問題として認識されるべきであると考えている。

原告からのビデオコメントとして、妹さんとご両親の3名の沈痛な心持ちと、その後には識者らの実体験と事件に関する気持ちを思い思いに語られるのを拝聴した。

五感を全て使って、とても平常心で聴くことを許されるような話ではなく、締め付けられるような、痛くなるような、内容だった。詳らかにするのは、個人を特定し、アウティングや二次被害など惨事を繰り返し重ねることになる故、差し控えます。LGBTは自分事ではないなどと軽視していていい、そんな時代は過ぎ去ったし、今も昔もこれからも、相応しくない考え方であり、傷を付けて誰かを追い込んだりもがき苦しめることに陥らせることがあると、知ることは義務であっては又理解の方法として正しいかは難しいが、知らなければならない一大事だ。
無知も何気無い一言やアウティング、その後の対応などなど、何が凶器になるかというのは、昨今のセクハラ問題に端を発した、セクハラの境界線やネガティヴリストを示せという加害者サイドをフォローする態度とも取られかねない攻撃的で傲慢で身勝手なものと理解せざるを得ない、不遜で破壊的な対応ではなく、何もが成り得る可能性もあるし、ましてや直接的に攻撃することに及ぶのは、あり得ない。段落初めに述べたことも何でも、凶器になり得る。

これはLGBT当事者でなければ取り扱ってはいけない聖域というものでもないし、区別や差を設けたり、変な線引きをどこかですることも、誰かが上から目線で行う、人工的いわば神の手とか見えざる手になる。フツーとか、そうじゃないとか、そういうことを言い始める時点でも、間違った対応になるはずで、理解をするとかしないとか、何か腫れ物で触ることが難しいもののように意識がなってしまっているかもしれない。誰が腫れ物なのか、一体何が問題なのか、問題という言い方は正しいのか。

この一橋大学アウティング事件を契機に、各大学でも動きや取り組みが新たに沸き起こってきている。一橋大学が所属する国立市においても、アウティング禁止を条例に明記されている。大学という教育における最高機関や地方自治体でも活発化している。社会が変わろうとしている。同性婚やパートナーシップなども続々と整備されており、進化と前進が推し進められている。個人一人ひとりも、意識をアップデートしていくことが大切だ。すべきだとか、しなければならない、という当然や義務はまた、誰かを苦しめる。しかし、その誰かの常識や非常識という概念や私たちの中にある何かが、誰か死を考えなければならない程にまで追い込んできてしまってきたこともまた確かなことだ。今後、悲劇が繰り返されるべきではないことだけは、断言できることだ。

言葉や物言い、態度や着眼点に相違はあるかもしれませんが、理解に欠如があったり、間違っていた場合はすみません。ご指摘頂けると、ありがたいです。何も知らなかったものが、ほんの少し好ましい前進を遂げて、それが社会の為にも社会の誰かの為にも誰かの社会の為にも誰かの為にも、その誰か一人ひとりにとってポジティヴなものになるよう、一助となる貢献が出来れば本望です。

そして、裁判、この闘いは終わっていません。まだまだ続きます、色んな意味を持った一学生の命が犠牲になってしまった事件を、風化させたり忘れていいはずがないこともまた断言できる確実なことでしょう。「一橋大学アウティング事件」、この経過と判決と大学対応を今後とも注目していきます。皆さんも是非そうしてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?