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我々の祖先は料理を覚えたことで知性が発達した? (岩佐文夫)

岩佐文夫「キッチンと書斎を行き来する翻訳書」第1回
Catching Fire” by Richard Wrangham 2009年出版
火の賜物―ヒトは料理で進化した
著:リチャード・ランガム  訳:依田 卓巳 NTT出版  2010年3月出版

料理という行為に凝縮されているものは

同じものを別の視点から見ると、まったく異なる様相を見せることがある。同じテーマでも議論する視点を変えると、まったく異なる課題が浮き彫りになることがある。料理がまさにそういったテーマではないか。

昨年末、ある企業で料理に関するプロジェクトを担うことになった。食べることは好きだったが、料理について自分でやったことも、考えたことも皆無。まずは自分で料理をしてみようと数カ月、台所に立ち続けてみたら、見えてくる風景がこれまでのものとは異質で新鮮だった。

料理は日常のやるべき家事の一つだが、食材を食事に変えるクリエイティブな作業でもある。料理をするなら栄養も美味しさも追求すべきだし、何より食べる人の満足も大事だし、時間やお金の制約もある。それは日常のルーティンでありながら、クリエイティブな作業であり、経済性を求められるタスクでもあり、食べる人を心和ませる、もてなしのサービスでもある。

さらにいうと、食材は元々は自然界にある命であり、料理は都市化された日常において最も自然を意識する行為だ。自然の恵みを栄養素に変えるプロセスにおいて、我々は無意識のうちに化学的、物理的、あるいは生物学的な作用を繰り返している。お肉を焼く行為は、まさにタンパク質を化学反応させることだし、発酵は微生物がもたらす生物学的プロセスを利用するものだ。

料理は生物としての存続上、必要なものであり、ヒトと自然との関係が凝縮されている。そしてヒトが有する社会性に深く関わる。さらにそのプロセスは科学を駆使する。この料理を社会の中でどう位置づけるのか。そんな問題意識を持ち、巡りあったのが、本書『火の賜物』である。

本書は人類が火を獲得したことでどう進化したかを著したものだ。結論を先に述べると、ヒトの知性は火を用いて料理をしたことで進化したという。著者のリチャード・ランガムはハーバード大学生物人類学教授。持論を都合よく展開するのではなく、他の理論も紹介しつつ、その反証も丁寧に描きながら書き進めるスタイルは、込み入った書き方ではあるが、書き手の姿勢としては実に真摯だ。

我々の先祖は、食べることで一日が終わっていた

それは今から180万年前に遡る。それまでのヒトは、今のチンパンジーのように顎が大きく噛む力が発達していて、胃腸も大きく、代わりに脳は小さかった。それが180万年前から急速に変化し、前に突き出た顎がどんどん小さくなり、脳は40%も大きくなった。これはヒトの進化の中でも大きな変移であり、それを促したのが火の使用と料理の発明であった。

火を使って料理することによって、ヒトは、硬い肉を柔らかくすることができるようになった。しかも焼いた肉は生のものよりはるかに消化しやすい。それまで、生のものを食べていた頃、ヒトは一日5時間以上噛んでいたという。そして消化にも時間がかかる。1日のほとんどが栄養の補給と消化にあてられていたという。まさにその時代の我々の先祖は、食べることが、毎日の「大仕事」であったのだ。

エネルギーを摂取するため、食べることに時間もエネルギーも使う。なんとも皮肉なのだが、火の出現がそれを解放する。火によって食べやすいものを摂取するようになると、消化に費やすエネルギーを他に回すことができる。そこで脳が飛躍的に発展した。この説はもちろん証明されているわけでもなく、アカデミックの世界にある仮説の一つで「料理の仮説」と呼ばれている。しかし著者は知性の発展というヒトの進化において、料理の発明が分水嶺になったと主張する。

料理の発明は、ヒトが消化機能を外部化したと言い換えることができる。食材のエネルギーを摂取しやすいように、口に入れる前に火で加工することで、噛む労力、そして胃腸で消化するエネルギーを火に代替させたのだ。料理とは動植物の命を食材に変えることであり、消化エネルギーを外部化するプロセスなのである。
ヒトの知性の進化において、道具や言語の発明がしばしば取り上げられるが、「料理」のインパクトを上げているのがとても面白い。

料理によって解放された人間

さらに、消化活動から解放されたヒトは社会性を帯びてくる。本書の6章「料理はいかに人を解放するか」では次のように書かれている。

「大型類人猿のように、起きている時間の半分を咀嚼に費やす必要がないので、自給自足社会の女性たちは一日の活動を食糧の採取と料理にまわす。生のものを長時間噛み続けなければならない生物学的要求から解放された男性たちは、思うままに生産的または非生産的な労働に取り組むことができる。料理によって、人間社会の最も際立つ特徴――性別による分業――が可能になったと考えられるのだ。
性別による分業とは、男女が異なるやり方で補完的に家庭経済に貢献することを指す。」(P.129)

分業は他の動物に見られない現象だという。そして、役割分担は家族の絆を生み出した。そこにはお互いの信頼関係がなければ成立しないからだ。外で狩にいく男性、家で料理を作って待つ女性。狩りは収穫がある日もあればない日もある。それでも、家に戻ると食べるものがあることで、家庭という持続的な生活基盤が作られた。そもそも生のものを食べていた時代は、狩りをするにもお腹が空いて生のものを食べると消化に時間がかかり、狩りどころではなかったようだ。

分業は、ヒトが社会性を育む上でも大きく作用した。生のものを食べていた時代、ヒトは、各々がその場で食べていたという。つまり一緒に食べる理由がなかったのだが、火を使い料理を作ることで、ヒトは集まって一緒に食べるようになった。まさに会食という楽しみの誕生である。「火を囲む」とはまさに原始の社交であり共同体が生まれる。そして、料理は常に食物の分配を伴うことから、共有による協調を促進した。

それから180万年後のいま、料理の進化は計り知れない。「火」を使わなくても電子レンジやIHコンロが代替してくれる。インスタント食品などの食品加工メーカーや外食産業まで至る産業化により「料理の外部化」がさらに広がった。高級レストランでのひとときは、味覚だけではなく、そこで過ごす全ての時間が至福に満ちている。

一方で、進化していないのは、社会の規範である。日本では共働き世代が3分の2を越し、家事の分担が進んでいるが、「家で料理は女性がつくるもの」という規範は未だ根強い。それこそ、加工食品や惣菜など家事の負担を減らす選択肢は格段に増えたが、社会に刷り込まれた規範はなかなか上書きされない。ヒトを消化活動から解放した料理が社会と規範作りをもたらしたが、そこで生まれた「料理は女性がするもの」という規範が、いまでは働く女性の足かせとなっている。なんとも皮肉である。180万年前の技術はすっかり変化したが、規範はいまだに踏襲しているのだ。

ヒトという生き物は、技術を開発するのは得意だが、一度作られた合意事項を変えるのは苦手な生き物なのかもしれない。あるいは、男性中心で社会の規範が作られてきた表れなのかもしれない。

執筆者プロフィール:岩佐文夫  Fumio Iwasa
フリーランス編集者。元DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集長。現在はフリーランスとして企業やNPOの組織コンセプトや新規事業、新規メディアの開発に携わる。

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