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中編小説

139
150〜200枚くらいの小説です。
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記事一覧

憂しと見し世ぞ1

憂しと見し世ぞ1

 手首をつかまれた。とっさにつかまれた右手を内側にひねって、手を切った。すぐに駆けだそうとしたが、長いポニーテールの尻尾を摑まれて、がくんと顎があがる。ぐんと後ろに引き倒されそうになるのを、右足に力を込めて踏ん張り、体を沈めた。そこで思わず尻餅をついてしまった。
「はい、アウト」
「髪の毛、引っ張るって卑怯じゃないですか」
 思わず振り返って睨みつける。黒田さんは、ニコニコして上からわたしを見下ろ

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憂しと見し世ぞ2

憂しと見し世ぞ2

 次の日、沢木と図書館に行った。おっとり系の沢木は、文学少年である。勉強ができる。また、わたしと幼なじみでもある。帰り道、鞄以外に大きなバックを持ってヨタヨタ歩いている沢木に会って、思わず「何、それ」と訊いた。クリーム色のビニールのバックは、象さんのマークが付いている。
「あ、有ちゃん。しばらく」
「しばらくじゃねえよ。なにその鞄。ダサダサじゃん」
「あっ、これ。図書館のバック。たくさん借りると貸

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憂しと見し世ぞ3

憂しと見し世ぞ3

「笑い男」はコマンチ団のヒーローだった。野球のゲームを終えると、コマンチ団の面々は、バスの中で若いコーチから「笑い男」の話を聞く。いつもすんでのところで、「笑い男」は危機を切り抜ける。波瀾万丈、痛快無比のこのお話は、子供たちに勇気と希望を与えていた。そして、野球の試合にには、いつもコーチの恋人らしい女の人が見にきていた。

 ある日、試合の後、コーチは女の人と長く話を続けた。バスに乗り込んできたコ

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憂しと見し世ぞ4

憂しと見し世ぞ4

 部活の後、いっちゃんと帰る。何気ない、他愛もないお喋りが楽しい。「そういえばさ」と、いっちゃんが話を振ると、「なになに」と、わたしが応える。部活のこと、勉強のこと、先生のこと、友達のこと、話題はつきない。もちろん男の子のことも。
「そういえばさ」とまたいっちゃんが話をふる。
「なになに」
「あんた沢木と手つないで歩いてたでしょ」
「さわきいー? ありえないじゃん」
「昨日、手をつないで図書館方面

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憂しと見し世ぞ5

憂しと見し世ぞ5

「え~、最初に紹介するが、今日から先生の助手兼生徒ということで入門された榊有紀さんです」
 黒田さんの紹介の後、小学生たちの前に出ると、大人じゃん。おっぱい小ちぇえの。などと不届きな声が聞こえてくる。まるきり躾はなっていないようだ。 
「え~、余談であるが、榊さんは、昨夜、先生の教えた空手の技で、見事暴漢を撃退した。この世の中、なにがあるか分からん。そんなときは、逃げるのが一番であるが、やむおえん

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憂しと見し世ぞ6

憂しと見し世ぞ6

 練習を続けながら、わたしはある男の子に注目していた。図書館にいた男の子だ。沢木がケガしていたと言っていたので、気になった。詳しくは聞かなかったが、どこをケガしているんだろう。まるで普通の動きだった。いや、普通よりも真剣だった。歯を食いしばって拳を突き出す。足を蹴り出す。そういえば、わたしが自己紹介していたときも、男の子はニコリともしなかった。
 休憩のとき、黒田さんに訊いてみた。
「ちょっと気に

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憂しと見し世ぞ7

憂しと見し世ぞ7

 「……憂しと見し世ぞ今は恋しき」
 古文の山根先生が、相変わらず一人で授業を進めている。寝てる奴。髪の毛をといてる奴。漫画読んでる奴。メール打ってる奴。いろいろだ。山根先生は怒らない。というか怒っても無駄だど知っている。人間は必要と思わないものを努力しない。この落ちこぼれクラスのほとんどが古文なんて必要としていない。じゃ、古文以外の教科を必要としているかといえば、それも、ない。
 沢木のクラスは

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憂しと見し世ぞ8

憂しと見し世ぞ8

 休み時間、教室移動の時、沢木を見つけた。上級クラスの扉から出てきた。沢木! と呼びかけて、近寄る。いっちゃんの言葉が甦った。いっちゃんがそういう気持ちなら確かめてみたい。
「なに?」と沢木が言う。
「あ。あのさ、図書館で会った男の子、覚えてる?」
 やっぱりすぐには切り出せない。
「うん」
「あの子のこと、ケガしてるって言ったでしょう」
「言った」
「実はさ、あの男の子と縁あって空手習ってんだけ

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憂しと見し世ぞ9

憂しと見し世ぞ9

 携帯で黒田さんに電話を掛けて、吉田君の住所を聞いた。練習前に寄ってみるつもりだった。道場で話をしても、あの対応ではらちがあかない気がしたから。
 交番でだいたいの位置を教えてもらって、後は適当に歩いていく。大通りは何度も通った道だったが、そこから一本入った路地に足を踏み入れたことはなかった。二階建ての古いアパートが四五棟建っていた。モルタルにひびが入って、その上をパテで塗り込んだ跡が蜘蛛の巣のよ

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憂しと見し世ぞ10

憂しと見し世ぞ10

 全部、片づけ終わって、充分に煮沸消毒した湯飲みで、二人で白湯を飲んだ。ジュースでも欲しいところだが、そんなものこの家には、ない。あっても、絶対飲まない。気がつくと、もうすっかり暗くて、道場の時間もとっくに過ぎている。仕方ない、今日は休みだ。白湯を飲みながら、
「お母さんとか、いつ帰ってくるの」
 と訊いてみた。
「し、知らね。いいいつも遊んでるし」
 面白くもなさそうに、でもすぐに答える。少し馴

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憂しと見し世ぞ11

憂しと見し世ぞ11

 息が詰まった。呼吸ができない。次の言葉を出すまでの数秒が、無限に長く感じられた。
「ケガは? 二週間って言ってたけど!」
 怒鳴るような大声だ。興奮してるはずなのに、自分が自分でないような。どこか違う世界で声が響いているようだ。
「右腕。どうしよう、練習できないよ。最後の大会なのに。どうしよう」
 どうしよう。数日前に受けた大野先輩のボールの感触が蘇る。最後の大会までに、あのボール、投げられるだ

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憂しと見し世ぞ12

憂しと見し世ぞ12

 居間に入ると、弟の大輔がソファーに寝そべってテレビを見ていた。わたしをチラ見して言う。
「姉貴、空手やってんの」
「おまえ、家族の話なにも聞いてないな」
「そんなこと話してたっけ」
「こないだ変質者が出たときも空手の話、出たろ」
「そうだっけ。いや、ベランダに道着が干してあったから、誰のって訊いたら姉貴のって言うじゃない。柔道やってんのって訊いたら、空手だって言うからさ」
「いいだろ、何やっても

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憂しと見し世ぞ13

 二時間ほど相談室にいてくたくたになって、でも、今日は部活の日だから、気持ちを振り絞って着替えて校庭に出た。私が出たところで、大岩先生はノックを中止してみんなを集める。そのなかに大野先輩はいなかった。
 先生を中心に半円状に整列する。大岩先生は私たちを見回して、口を切った。少し声が緊張していた。
「榊も揃ったところで、みんなに次回のメンバーについて発表する。
大野のことはみんなも知っていると思う。

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憂しと見し世ぞ14

憂しと見し世ぞ14

 はっきり言って死んだ。練習終了後、一滴もエネルギーは残ってなかった。着替える気力もなくて、グラウンド整備はみんなにお任せして、ベンチでぶっ倒れてた。体より気持ちが疲れた。いっぱいいっぱいだった。もういいや。このまま着替えずに帰ろう。バックをズリ寄せると、その膨らみに目がいく。あ、そうだ。おにぎり。朝、食欲のなかった私にお母さんが持たせてくれたものだ。お腹すいたら食べなさいって。今まで忘れてた。そ

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