憂しと見し世ぞ5
「え~、最初に紹介するが、今日から先生の助手兼生徒ということで入門された榊有紀さんです」
黒田さんの紹介の後、小学生たちの前に出ると、大人じゃん。おっぱい小ちぇえの。などと不届きな声が聞こえてくる。まるきり躾はなっていないようだ。
「え~、余談であるが、榊さんは、昨夜、先生の教えた空手の技で、見事暴漢を撃退した。この世の中、なにがあるか分からん。そんなときは、逃げるのが一番であるが、やむおえん時に備えて、お前たちも榊さんのように日々研鑽を積むように」
黒田さんの演説の間も、ボウカンってなんだ? ヘンシツシャのことだって。それ、今日学校の先生が言ってた。お姉ちゃん結構かわいいじゃん。おっぱいちっちぇえー、ケンサンってなに? と実にやかましい。
「では、一言、榊さんに話していただこう」
まばらな拍手。わたしは一同をゆっくりと見回す。小学校三四年生が中心で、五六年生が少し。小一小二は三四年生の半分くらいか。全部で二十五人くらいと見た。その間にもザワザワはやまない。特におっぱいおっぱいと連呼する、六年生らしき男の子がしつこい。
わたしは大きく息を吸い込んだ。腰に手を当て、おっぱい星人を睨みつけて怒鳴った。
「てめえら! うっせえんだよ! 特にてめえ、セクハラもいいとこじゃんか。そんなにおっぱい好きなら、家に帰って母ちゃんのでも抱えてろ!」
沈黙。おっぱい星人は、目をまんまるにしている。
すかさず、黒田さんの豪傑笑いがした。
「結構結構。元気があってよろしい。それじゃ、型の練習に入るぞお」
子供たちは救われたように立ち上がり、口々に押忍押忍言いながら、定位置につく。
前におっぱい星人が立って、掛け声をかける。みんな一斉に正拳突きを始めた。
「黒田さん。躾がなってないですよ」
「いや、すまんすまん。でもな、こいつらは少なくともこっちの話を聞いてはいるだろ」
「そりゃ、まあ、そうですけど」
「ここまでだって大変だったんだ。入門したての時なんてな、聞きやしねえんだ。自分たちで話ばっかりしてな」
「これで満足なんて、あまあまですよ。うちのソフト部だったら校庭十周ですよ」
「そうか、じゃそっち方面を有ちゃんにはやってもらおうか」
「マジですか」
「手伝うっていったろ。その代わり、月謝はただだって」
喜んでいいのだろうか。それとも悲しむべきか。今日は、時間より早く来て、黒田さんに昨日の報告とお礼を言った。それから正式に入門したいこと、月謝はいかほどか尋ねた。おばさんの頼みだから月謝はいらない、という黒田さんに、いやこれはけじめだからとわたしも譲らなかった。ちょっと考えて、黒田さんはこう提案した。
「じゃ、有ちゃんには指導者側として入ってもらおう。だから、月謝をもらう側。で、そのもらうはずの月謝分、僕が教える。これでどう」
「どうって、わたし、空手なんか教えられませんよ」
「空手は僕が教えるよ」
「じゃ、なに教えるんですか」
「いや、心配しないで。教えることはね、いっぱいあるの」
確かに教えることはいっぱいある。こいつらには、まず、体育会系とはどういうものか一から教えてやらねばなるまい。って、部活かここは。
しかし、練習に入ると、思ったより数段子供達は真剣だった。一本突き。三本突き。追い突き。上受け。外受け。内受け。手刀受け。前蹴り。回し蹴り。蹴り上げ。蹴り込み。
おっぱい君、もとい本木くんの声は特によく響く。その間、黒田さんは道場の中をのんびり行ったりきたりしている。時々手にした竹刀で、肘を上げたり、蹴り上げの高さを指示したりする。その度、子供達は「押忍!」と元気よく返事をする。なんだ、ちゃんとやるときはやるんだ。拍子抜けの感じだった。それよりもこっちがやばい。正拳突きのスピードは本木よりも明らかに劣るし、蹴りは回数を重ねるにつれ、上がりが悪くなる。中学生のプライドにかけて、疲れたそぶりは見せないようにしたが、何しろ初心者の悲しさ、時間がたつにつれ、へろへろになっていった。そんなわたしを馬鹿にするでもなく、練習は淡々と続いていった。