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大河「いだてん」の分析 【第17話の感想】 ②奠都五十年奉祝博覧会とはどんなイベントだったか

いだてん17話は躍動感があってとても良かった。
17話の分析感想はいくつかのスレッドに分けて書いているが、今回のは『奠都五十年奉祝博覧会』についてのまとめ。

『①嘉納治五郎の夢、スタジアム建設』の分析感想や、他の回についてはこちら↓

1、“奠都50周年”とは?

1917年、金栗四三たちが企画に携わった「東海道五十三次駅伝」は、『奠都五十年奉祝博覧会』という催し物の一環であった。

この「奠都(てんと)」というのは耳慣れない言葉である。調べてみた。

明治維新のとき江戸が東京とされ、都として定められたこと。京都との東西両京としたうえで、慶応4年7月17日(1868年9月3日)に江戸が東京と改称され、同年9月に元号が明治に改められ、同年10月13日に天皇が東京に入り、明治2年(1869年)に政府が京都から東京に移された。

「遷都(せんと)」と「奠都(てんと)」はどう違うのか。

「東京奠都」と「東京遷都」の語の使い方を巡っては議論がある。一義的には「奠都」は都を定める事を表すのに対して「遷都」は都を移すことをいうが、天皇や政治中枢の移動を伴えば実質的にはほぼ同じ意味であり、この場合、旧都を廃することを含んでいるかどうかが論点となる(「遷都」の場合は廃止の語義を含む)。

というわけで、江戸が東京となり“奠都されてから50年目を祝う会”という意味である。

2、初の駅伝のゴールが“上野”の理由は?

そこで企画された“駅伝マラソン”が、東海道五十三次をモチーフにするのは、わかる気もする。
そもそもの会の目的が奠都記念なので「明治天皇が京都を出発して江戸城に入ったことを指す。このルートを再現するとの発想で生まれたのが東海道駅伝だった。」という説が下記の新聞社記事では書かれていた。理にかなっている。

しかし、なぜ、ゴールが上野なのだろう。
そこはしっくりこなくていろいろ調べてみたのだが正確にはよくわからなかった。江戸城入場がモデルであれば、皇居前広場がゴールでもよかったではないか。

なので仮説として書くが、
この時期、上野公園周辺は“博覧会会場のメッカ”であった。だから大きなイベントがやりやすい状況がそろっていたのかもしれない。
警備環境とか事前準備搬送経路とか集客力とか。

明治から大正時代にかけて上野公園が“多くの博覧会の会場”になっていたことは、下記の「上野観光連盟」のウェブサイトに情報がまとまっているのでリンクする。ほんとにたくさんのイベントが毎年のように催されている。

特に規模が大きかったのは、
1914年開催の東京大正博覧会や、1922年の平和記念東京博覧会
だそうだ。第一次世界大戦前夜と終戦後にあたる。

1914年の博覧会は、入場総数はなんと750万人。

第一会場と第二会場の間には、日本初とされるエスカレーターが設けられ、また、不忍池には「ケーブルカー」と称されたロープウェイが架けられた。全長400メートルのロープウェイは新技術のシンボルとして人気を博した。

エスカレーター! ロープウェイ!

1922年のイベントの来場者数はさらに多い1,100万人という。「空前の人出」。

主催は東京府。第一次世界大戦終結後の平和を記念し、日本産業の発展に資するため開催された。会期は1922年3月10日から7月31日まで、来場者は約1100万人と空前の人出になった。

当時の絵葉書が残っており、それをまとめてくれているブログのリンクをご紹介。
たくさんのしっかりしたパビリオンが建てられていて豪華絢爛。

下記のサイトでもこのパビリオンについて触れているので引用する。

博覧会ではその都度、仮設の建築物(パビリオン)が造られたが、その中には博覧会終了後も、引き続き使用されるものも存在した。現在の「東京国立博物館」は、初期の「内国勧業博覧会」の開催に合わせて上野に移転、建設された。また、博覧会の開催により園地が整備され、新しい文化施設の誕生につながった。(中略)
こうした施設の存在が、長く文化の地・上野を支えてきた。


“大きめのイベントやるなら上野公園”というムードがこの頃はできあがっていたのかもしれない。
それで、奠都50周年イベントも、上野公園が選ばれたのかもしれない。

いまも不忍池のふちに建つモニュメントの結びにも、こうある。

『ゴールは、ここ東京・上野不忍池の博覧会正面玄関であった。』と。

(おわり)

※他の回の分析感想はこちら↓


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