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読書感想文 古代の鉄と神々/真弓常忠

 日本古代史には謎が多い。例えば銅鐸にしても、なぜ作られ、なぜ埋められているのかもわかっていない。また我が国には「鎮守の森」が全国津々浦々、どこにでもある。しかし鎮守の森やそこを守護する神社がどういった由来でそこにあるのかもわからない。由来が忘れられて場所や道具だけが残されてしまっている。
 そこで真弓常忠先生はある思いつきを「?」の部分に導入する。それは「鉄」である。鉄が銅鐸の謎や神社の謎を解明するのではないか、と思うに至ったのだ。

「穴」と「物」の意味

 我が国は弥生時代以降、稲作が始められるようになった。だが道具は何を使っていたのか? 青銅の鍬や鋤? しかし青銅の剣や矛、銅鐸は大量に発見されているが、青銅の鍬や鋤は発見されていない。
 奈良県唐古遺跡から鉄器の刃物が発見されているが、しかしそれが日本で生産されたものか大陸から持ち込まれたものか判別することができない。弥生時代の炉が発見されていないことから、まだその技術は日本にはなく、大陸から持ち込まれたもの、と推測されてきた。

 我が国の神話には、国作りの神として「大国主神」が登場してくる。大国主神には多くの別名があり、「大汝牟遅(オオナムチ)」「八千矛神(ヤチホコ)」「芦原醜男(あしはらしこお)」「三諸神(みもろのかみ)」……と一部を取り上げたが非常に多い。ここでは主に「オオナムチ」の名前について取り上げる。
 『出雲国造神賀詞』の中でオオナムチが、自分の和魂を大物主と称して三輪山に奉ったことが記されている。出雲が開けたのは考古学上5世紀以後と見られているのに対し、三輪山は周辺に3世紀~4世紀の古墳が発見されているから、オオナムチの神の発祥は出雲ではなく三輪山付近と見られる。
 従来の説では「オオナ」は「大地」と解された。高天の原の神々を意味する「天神(あまつかみ)」に対して出雲系の神々を「地祇(くにつかみ)」と呼んだことから、納得できる説明と考えられてきた。
 一方『古事記』では「大穴牟遅神」、『出雲国風土記』では「大穴持命」と表現される。ここから「穴」を正字と見て、「偉大なる洞穴に坐す貴い神」という名義が提唱された。

 では「穴」とは何を示しているのか?
 『出雲国風土記』には「天の下造らしし大神、大穴持命(おおあなのもちのみこと)」として大己貴神の説話が頻出する。
 ところがこの大己貴神をまつる杵築大社(きづきたいしゃ)の所在する出雲郡には2例しかなく、東出雲の意宇・大原・仁多の3郡および西出雲の神門・飯石2郡に多く、全体で見ると21例中18までもが山間部を中心に分布している。
 記紀神話によればオオナムチの神は農耕神であるが、しかしその祭神のありかのほとんどが山間部であるということから、オオナムチは本来狩猟神で、まつろわぬ80神を征伐して統合した、という説が生まれた。だがこの説には証拠がない。
 『出雲国風土記』を細かく見ると、飯石郡の項に「鉄あり」と記し、仁多郡でも同じく鉄の産することを示している。また意宇・大原・仁多・神門、飯石・出雲の各郡はいずれも砂鉄を多く産出した。オオナムチの神はこの砂鉄をもって山間部より平野部に勢力を伸ばしていった、と見ることができる。

 オオナムチの神の発祥地とされる三輪山はどんな山だろうか?
 実際に登ってみると、三輪山は明らかに鉄分の多いはんれい岩から成り立っている山である。三輪山西南麓に目を向けると金屋遺跡があり、そこには前期縄文土器が発見されているが、さらに弥生時代の遺物とともに同層位から鉄滓や吹子の火口、焼土が出土している。鉄滓は文字通り製鉄の時に吐き出される鉄の滓であるから、間違いなくその付近で製鉄が行われていたことを示す証拠となる。だから「金屋」と称したのだろう。
 また三輪山の山ノ神遺跡から刀剣片と思わしき鉄片が出土しているし、穴師兵主には鉄工の跡が発見されている。
 こうしたことから三輪山が古代の鉄生産地に関した山であり、この山を神体とするオオナムチの神が産鉄に関した神であると証明することができる。

三輪山12-1

↑三輪山

 砂鉄による製錬は、まず鉄砂をふくむ山を選ぶところから始まった。この鉄砂を含む山を「鉄穴山(かなやま)」と呼び、砂鉄を採る作業を「鉄穴流し(かんなながし)」といい、そこで働く人々を「鉄穴師(かなじ)」と呼んでいた。
 鉄穴師は砂鉄分の多い削りやすい崖を選んで山から水を引き、崖を切り崩して土砂を水流によって押し流し、砂鉄を含んだ濁水は流し去り、重い鉄砂は沈むからこれを採ってタタラ炉に入れて製錬する。

 『古事記』允恭天皇の段に、「軽箭(かるや)」と「穴穂箭(あなほや)」の語があって、ともに軽太子(かるのみこ)と穴穂御子(あなほのみこ)(のちの安康天皇)の名にちなんだという説があるが、その説明に「軽箭」は「箭の内を銅にせり、かれその矢を号(なつ)けて軽箭といふ」とあり、「穴穂箭」は「今時(いま)の矢ぞ」とある。
 これは軽箭とは鏃(やじり)が銅製の矢のことで、「穴穂箭」の鏃は鉄製であることを示している。したがって「穴穂」の「穴」は「鉄穴」の意、「穂」は「その秀でたもの」の意で砂鉄を指す。
 「穴生」「穴太」はいずれも産鉄地であり、吉野の「賀名生(あのう)」も地名の由来は「鉄生」だ。「穴師」は砂鉄採掘の技術者、「穴太部」は産鉄の部民名である。
 かくして「穴」は「鉄穴」の意から「鉄」の意に用いられるほど限定して用いられていたから、「大穴牟遅」は「偉大な鉄穴の貴人」との説が成り立ちうる。オオナムチの神はその発祥において「鉄穴」の神、つまり産鉄の神として三輪山に祭られたのである。

 三輪山は大和の住人にとって、農耕に必要な水をもたらすと同時に、農耕を推進する鉄製器具の原材料たる砂鉄を産する山であった。
 自然の事象がそのものの他に何らかの神秘的な呪力を持っているとか、神霊の宿すところとかのために神聖視するのは、現代的な反省の加わった一種の神学であって、原初的な宗教信仰では、もっと直接的に、事象そのものをそのまま神聖視した。大和の民が三輪山を信仰したのは、他ならぬ水と鉄を生み出す山だったからだ。

「モノ」の意味

 次に「モノ」の語義について見ていくとしよう。
 大物主神、あるいは物部の“モノ”には従来次の3つの意義が認められている。
① モノノフ 武士の意
② モノノグ 物具 武器の意
③ モノノケ 精霊、鬼神の意
 “モノ”の語義は第一義的には物体を表す言葉であり、そこから逃れたい法則とか、事実などをさすようになり、同時に人間に対する祟りをもたらす存在として「モノノケ」「ものに襲われる」などの言葉で現される精霊とか魔物とかを指すようになったということである。
 すると大物主神、あるいは物部の“モノ”は第一義的な物体を現す言葉として、何らかの対象物、物体を指して“モノ”といい、やがてそれにひそむ霊的存在を指して“モノ”とし、恐るべき霊魂を“モノ”と称することになったと考えられる。したがって“モノ”に強い霊力を認めるのは、元来の物体としての“モノ”にひそむ霊的存在を認識した古代人の観念により発展した二次的意義である。
 “モノ”は万般を指し示す言葉、あるいは畏怖すべき霊魂がそこにあると思われる言葉に変質していった。だが、その“モノ”を具体的に示す物体があったのではないか。あったとするならばなんであるのか。
 それが“鉄”ではないのか。
 鉄は農工具のみならず、武器にもなった。農耕文化だけではなく、人々の文化の根源であり、それらを広める起爆装置でもあった。その原料である砂鉄は、まさしく万般の“モノ”の根源的存在であった。そこから造られる鉄は霊的存在を見いだすに足る具体的存在であった。
 そしてその鉄を管理する氏族が「モノノベ」を称し、物部が鉄を管理し、武器を管理し、その武器が神宝の性質を持ち、その武器を操る人々を「モノノベ」から「モノノフ」へと変わっていった。

 『古事記』を読んでいると、国造りの神たるオオナムチは次第に物語の中心部から遠ざかっていき、最後にはすっとフェードアウトしてその後がわからなくなる。「物語」として読むと不自然だし結末が書かれていないことに中途半端さを感じるが、読み方を変えれば納得することができるはずだ。
 オオナムチは砂鉄を採取する「鉄穴」から発想された神であり、その神が造りし鉄によって人々は農耕の恵みを得ることができた。だがやがて渡来の製鉄技術によってオオナムチが広めた文化は後退し、忘れられていくことになる。実際に4世紀から5世紀にかけて韓鍛冶の技術が渡来し、その技術が日本中にあまねく広がっていくことになる。
 『古事記』の大汝牟遅フェードアウトの理由がこういうところであるとしたら、どうだろう。

「すず」の正体

 天岩戸の神話の中に、天鈿女命(アメノウズメ)が着鐸の矛を持って神楽を舞ったとある。

 天鈿女命をして真辟葛(まさきのかづら)を以て鬘と為し、蘿葛(ひかげ)を以て手襁(たすき)と為し、竹の葉、飫憩(おけ)の木の葉を以て手草と為し、手には鐸(さなぎ)を著けたる矛を持ちて、石窟戸の前に誓槽覆(うけふねふ)せ、庭燎(にわび)を挙げ、巧みに俳優(わざおぎ)を作(な)し、相与に歌ひ舞はしむ。

 『日本書紀』には「茅纏の矟(ちまきのほこ)」とある。『古語拾遺(こごしゅうい)』には「天目一箇神(あめのまひとつ)をして、雑の刀・斧、および鉄鐸を作らしむ」とあり、鉄鐸はとくに「佐那伎(さなぎ)と読むよう注意がしてある。
 天目一箇神は『古語拾遺』の冒頭に斎部氏の祖である太玉命が率いる五神の中にその名が見え、「筑紫・伊勢両国の忌部等の祖なり」とあり、『日本書紀』第二の一書には「天目一箇神を作金者とす」とあるから、斎部氏に所蔵して製鉄に従事した部民の奉祀したところと知られる。
 天目一箇神とはタタラ炉のホト穴を覗き込んで隻眼となった鍛冶職を神格化した名前である。つまりは「一つ目小僧」だ。
 『延喜式』四時祭には鎮魂祭の料として、
 鈴   廿口
 佐奈伎 廿口
 と挙げられているので、平安時代まで鈴と鐸が用いられており、ともに鎮魂の料であったことが判明する。
 天岩戸がくれの神祭りは、宮廷鎮魂祭の本縁を語ったものとされているが、そこに鈴と鐸が用いられていることは、鈴や鐸を振りならして鎮魂の呪儀としたのである。

 京都の上賀茂神社には毎年5月15日の賀茂祭に先立って、12日に御阿礼(みあれ)神事という秘儀がある。これは本社の後方に御阿礼所を設け、そこに降臨する神を迎える儀であるが、そこに藤蔓の皮でできた径3寸ばかりの円座様のものをとりつけ、これを「おすず」としている。
 「おすず」は「信濃」の語の枕詞になった「みすずかる」の「みすず」という葦草様の植物が、信濃と気候のよく似た賀茂付近にも自生していて、これを神々の御座所とする意味でとりかけたのが「みすず」。「みすず」は「御すず」とも記し、「おすず」となり、やがて「鈴」に置き換えられたとされた。
 古歌に、
 わがひかむみあれにつけて祈ることなるなる鈴もまづ聞ゆなり 源順
 おもふこと御生(みあれ)の標(しめ)に引く鈴のかなはずばよもならじとぞおもふ 西行
 とあるところからわかるように、かつての時代でも鈴を引いて祈願していたことがわかる。「みあれ」は「御阿礼」のことである。
 この鈴が現在も神社の社殿の軒下につるし、参拝者が拝礼の際してならす緒のついた鈴となる。

 「みすずかる」という言葉は「万葉集」にも記されている。

 水薦苅 信濃の真弓わが引かば貴人(うまひと)さびていなと言はむかも 96

 この「水薦苅」の読み方は諸説あるが、現在では「みこもかる」と読むことが通説となっている。  信濃にはえているのは「こも」ばかりではない。葦や茅(よし)もあり、美篶(みすず)湖があるから、「すず」の読み方は正しいと考えられる。
 だが禾本科植物の「すず」をどうして神聖を意味する接頭語「み」を頭に付けたのか。薦も神事に用いられるが、「すず」だけが「み」を付けるようになったのはどんな意味があるのか。

 植物の「すず」と、音を発する「鈴」は同じアクセントの語である。この両者が始原の時代では関係があったと考えられる。
 鳴石と呼ばれる石がある。鳴石は「なりわ」(なりいわ)と呼ばれ、地方によっては鈴石とも壺石とも称する。愛知県の高師原で発見されたことから「高師小僧」(たかしこぞう)とも呼ばれている。地質鉱物学でいうと、これは褐鉄鉱の団塊である。
 褐鉄鉱とは若干の吸着水をもつ水酸化鉄の集合体の総称で、沼沢・湖沼・湿原、浅海底などで、含有水が空中や水中の酸素により、またバクテリアの作用により酸化・中和し水酸化鉄として鉱泉の流路に沿って沈殿したものである。
 要するに褐鉄鉱の団塊とは、水中に含まれる鉄分が沈殿して、さらに鉄バクテリアが自己増殖して細胞分裂を行い、硬い外殻を作ったものである。
 こうしてできた褐鉄鉱は内部が溶解し、外殻と内核が分離するので、振るとチャラチャラと音を立てる。太古ではこれを「スズ」と呼んでいたのであろう。
 この褐鉄鉱の団塊、すなわち「スズ」こそが製鉄の原料となった。

高師小僧

↑高師小僧

 では「みすずかる」の意味とはなんであったのか。
 スズは葦や薦や茅のような沼沢、湿原に生える植物の根元に現れる。スズを採取すれば農耕に必要な鋤やクワ、あるいは武器である剣や斧を作ることができる。ゆえに古代人にとってスズは貴重なものであった。だから褐鉄鉱の団塊たる鳴石も、それを生じさせる湿原の禾本科植物もともに「スズ」と呼んだ。
 製鉄の原料となる「スズ」は貴重であり神秘であるが、それが根元に生じさせる薦や茅も神秘である。だからこそ神聖さを意味する接頭語「み」を頭に付けて「みすず」と称し、神事に用いられるようになった。
 スズを採取することは湿原の薦や茅を刈り取ることに他ならないから、「みすずかる」とは両者の意を兼ね備えた地においてこそ枕詞になり得た。

銅鐸のただしい使い方

 弥生時代の人々にとって、鉄の原材料であるスズが生成されることは待ち遠しものだった。そのために、スズの生成を促進させるための呪儀を行った。
(「鉄が再生成される」と聞くと不思議に感じるが、実際湿原や湖底の鉄は再生成される。地下水に鉄分が混じっている場合、鉄分は様々な鉱石と結合して、やがて鉄鉱石として生成される。フィンランドのメヒコ製鉄所でも湖底からさらった鉄鉱石から鉄を生成していたが、再生周期は10年ほどとしている)
 そこでスズの模造品を造り、スズのできそうな湖沼を見渡せる山の中腹の傾斜地でこれを振り鳴らし、仲間のスズの霊を呼び集め、あるいは土中に埋納して同類の繁殖を祈った。一種の類感呪術である。そこで使用されたのが鈴や鐸(さなぎ)であった。
 初めの頃は鉄で鉄鐸が作られていたと思われるが、間もなく銅で同じものを作った。それが銅鐸であろう。

※ 類感呪法……類似した物同士は影響し合うという発想に則った呪術。「呪いのわら人形」などはこの発想に基づいた呪術。

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↑銅鐸

 こうしてみると、天鈿女命の舞の意味がわかってくる。天鈿女命は茅纏の矟を以て舞い踊ったが、茅纏の矟は、茅とその根元にまとわりついた褐鉄鉱の団塊を示したものだ。
 また銅鐸がどうして日本中の土中に埋められていたのか、それは鈴や鐸を振り鳴らすだけでは効果が弱いと見て、さらに同類を模造して地中に埋祭したからである。

本の感想

 本書の紹介はここまで。今回すこし長めなのは、ここまで書かないとかつて鉄がどうして信仰の対象となっていたのか、そのアウトラインを示せないと思ったから。
 でもご安心を。これでも本書の79ページまでの内容。まだまだこれから「本編」が待ち受けている。読み応え充分な本なので、ぜひお勧めである。

 では感想。
 考古学的には日本の製鉄は6世紀頃に始まったとされる。この根拠は日本国内で発見された最古のタタラ炉が6世紀のものだからだ。学問の世界は証拠主義だから、この説は正しい。
 また鉄の製造方法を記した資料は極端に少ない。我が国では江戸時代に製鉄技術を記した本は下原重仲著『鉄山必要記事』(1784)たった一冊限りで、だから製鉄の技術がいつ頃始まったのか、どのように変遷していったのか、それすらよくわかっていない。
 鉄の製造技術が秘伝とされたのは、一つには鉄は兵器だったからだ。現代でも兵器を他国に売ることはあっても、その製造方法は絶対に教えない。ブラックボックスとなっている。それと同じことだ。また鍛冶職人たちにとっては職業上の秘密で、それを軽々に外部にもたらし、仕事を失うわけにもいかなかったからだろう。そういうかつての事情があって、製鉄技術を現代でも秘伝としている職人たちもいる。さらに本書にあるように鉄製造が宗教的意味を持っていたとすれば、秘伝となっていた理由がわかる気がする。
 古い時代の鉄がどうして残っていないのかというと、鉄は腐食しやすく、数百年の時の風雪で跡形もなくなくなってしまう。一方の銅は何年も残る。だから土中に埋められた銅鐸は、原型のままで今でも発見されている。鉄鐸なるものもおそらく作られ、同じように埋められたと推測されるが、こちらは跡形もなく消滅してしまっている。鉄はなくなってしまうものだから、古代の製鉄についての推測が難しくなってしまう。
 こうしたわからないことだらけの我が国のかつての製鉄技術がどのように行われていたのか、先人の残していった足跡や、日本中に散らばる神事の中から読み解こう、というのが本書だ。
 大国主命ことオオナムチは鉄そのもので、鉄を崇めるうちに生まれた神だし、素戔嗚尊は「スサの男の神」、「スサ」とは「砂鉄」のことで、だから砂鉄で鉄を作る神を崇める信仰そのもののことであった。
 また鐸を「サナギ」と読むと本書で紹介されている。サナギに「ギ」「ミ」の男女両神を意味する言葉を載せ、さらに接頭語「イ」が付いて「イザナギ」「イザナミ」となる。
 私はてっきり古事記に描かれている神々は特定の誰かだと思っていた。イザナギやイザナミ、須佐之男命という名前を冠にした誰かがいるのだと思っていた。だがこれらは特定の人物名ではなく、信仰を示したものだ。須佐之男命という神を信仰していた集団があるだけで、須佐之男命という名前の人物はいなかった。

 ここまでわかってくると、『古事記』の読み方もずいぶん変わってくる。

 古事記には天照大御神と須佐之男命のある諍いが描かれている。
 まず天照大御神が須佐之男命から十握の剣をもらい受け、これを3つに折り、その剣をよく噛んで吹きすてるとその息吹が霧となって生まれたのは多紀理毗売命、奥津嶋売命、市寸嶋比売命。
 須佐之男命は天照大御神の鬟に巻いてある5百の勾玉を譲り受け、天の真名井で振り清めてよく噛んで吹き捨てるとその息吹が霧となって現れた神は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩比命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毗命の五柱の神であった。

 このエピソードは天照大神と素戔嗚尊の近親相姦を示しているとよく言われるが……何か引っ掛かる。性交を表現した場面としては書き方が迂遠ではないか。
 よくよく読んでみると方や剣を折り、噛んで3つの神を作り出し、方や勾玉を噛んで5つの神を作り出している。剣を折って別のものを作っているから、鉄を加工して別のものを作りました、という話だ。天照大神も素戔嗚尊もともに製鉄の技術を持っていたことがここでわかってくる。二人が作ったのは、おそらく細工品だ。
 また天照大神の天之岩戸隠れのエピソードは、皆既日食を表現していると考えていたが、本書の説明を読む限り、天照大神が隠れた岩戸とは炉のことで、天照大神のポジションは火だ。……本書にはそこまで書かれていないので、このあたりはどうなのかよくわからないが。

 神話を現代的な感覚の物語として読むのは間違っている。神話は昔の人々が夢想したファンタジーではない(ファンタジーにしてしまうのは、後の人々だ)。その当時の人々にとっては意味があり、合理的であり、またあるいはその時代特有の美学に基づいて記された本のことである。その時代の人々がどのように考えていたか、それぞれの言葉は当時何を意味していたか、それを一つ一つ読み解きながら進めないと内容を誤って読むこととなる。

 ただこの本にも引っ掛かりがある。真弓常忠先生は神武天皇は新しい製鉄技術の旗手で、東征の時期を3~4世紀としている。しかし長浜浩明先生は『日本の誕生』という本で神武天皇即位の年を紀元前70年頃としている。これはまず当時の大阪湾の地形が関係している。
 というのも、大阪湾はしょっちゅう地形が変わっていた場所で、3世紀の頃となるともう『日本書紀』に書かれているような地形ではなくなっている。『日本書紀』の描写と、地質学が示した地図を一致するのは、「河内潟の時代」(紀元前1050~紀元前50年)でしかあり得ないとしている。  さらに「裴松之の注」の中で、かつて日本では1年を2年と数えていた、という記述が発見されている。初期の天皇の年齢がやたらと長寿に見えたのはこのためだ。
 これを整理してやると神武天皇が東征したのは紀元前74年。紀元前70年初代天皇として即位したということになっている(皇紀もここから始まる)。ちょうど「河内潟の時代」にぴたりとはまる時期だ。これらはなかなか動かしがたい証拠に基づくので、こちらのほうが正しいのだろう。真弓常忠先生の説から300年ほど過去に移して考えるべきだろう。

 その神武天皇が新しい製鉄技術を兵器として携えていた、というところに異論はない。おそらくはそういう新兵器の力を背景に、戦争に打ち勝ち、勢力を伸ばしていったのだろう。鉄はなにも戦闘ばかりではなく、戦争なき時代ではクワや鋤などの農具にも使えた。日本を農耕国として広めていくためには、鉄の技術が不可欠だ。
 すると問題は、いったいいつ頃から日本で製鉄が始まったのか? 真弓常忠先生が考えるよりも、鉄が我が国にもたらされたのはもっと早かったと考えられる。が、それがいつなのか。中国に製鉄技術が渡ったのが紀元前400年頃だとされている。それから日本に渡ってくるまでどれくらいの時間が掛かったのか。これを推測するにはまだまだ材料が足りなすぎる。もしかすると、中国から日本への鉄伝来はもっと早かったのかも知れない。
 伝承では建御雷神(たけみかずちのかみ)が神武天皇に授けた布都御魂剣(ふつかのみたまのつるぎ)という剣がある。残念ながら現在伝わっている布都御魂剣はレプリカだ。もしもこの本物が現代に残っていて、その剣を作ったのが高師小僧か砂鉄かわかれば、このあたりの解明も一気に進むのだが……。

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↑布都御魂剣 写真:日本製鋼所室蘭製作所 瑞泉鍛刀所

 とにかくも紀元前100年頃にはすでに日本においてそれなりの製鉄技術が発展させられていた……と推測することができる。
 すると神話の時代がいつだったのか、という話にも疑問が生じる。かつての日本では褐鉄鉱を使用して製鉄が行われていた。それが5世紀頃砂鉄から鉄を作り出す韓鍛冶の技術が伝わってきた。これに合わせて、神話も書き加えられていった。ということは、人間の歴史と神話の時代は実は同時並行だった……ということになる。
 これだと都合が悪い。『日本書紀』や『古事記』では神の時代があって、後に人間の時代が来たという展開になっている。これが同時進行だったら、様々な矛盾が生じてしまう。
 これを矛盾せずに説明しようとすると、やはり日本での製鉄技術は非常に早かった、ということになる。紀元前100年よりもさらに前……。中国に鉄が伝来したのが紀元前400年だから、その間。このあたりはどう解釈するべきだろうか。
 イザナギイザナミの神も鉄伝来を伝え残したお話であるとすると、それはいつのことだろうか?

 『古代の鉄と神々』非常に面白い本だった。この本に書かれている説の一つ一つが正しいかどうかの判断は私にはできないし、その立場にはない。でも先人の知恵を借りつつ、日本中に散らばっている意味がわからなくなった神事や聖所が残している言葉の意味を一つ一つ取り上げ、「鉄信仰」というキーワードに集約させて解明していく過程がなんともいえない。極上のミステリにおける探偵の判じ解きでも読んでいるようだった。そういう読み方もあるのか、と感動させられた。
 一つの考え方を心得る本として、ぜひともお勧めしたい良書である。


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