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読書感想文 官能美術史: ヌードが語る名画の謎 池上英洋

 前回、『絶頂美術館』で名画をあえてエロ目線で見る……という試みを紹介したが、そこから一歩進んでエロスとは何なのか。その内実や歴史観について掘り下げていこう。現代人は「エロス=猥褻」くらいの図式でしか思考できなくなってしまったが(現代人は現代的な思考しかできないものだ)、その背景にあるものは時代によって様々なだし、俯瞰して見るとそこには一貫した文化史が見えてくる。それを西洋画から読み取っていこう……というのが次に紹介する本の試みである。

 美術の世界は「愛」と「美」に溢れている。太古の昔から、人類は愛と死を最大の関心事とし、絵描き達もそれをテーマにいくつも作品を手がけてきた。このテーマを一度も扱ったことのない芸術家など、皆無であるといっていい。
 例えばレンブラントは『夜景』などを描いた大画家であるが、性交場面も多く描いた画家だということを知る人はさほど多くない。レオナルド・ダ・ビンチもおびただしい解剖図のなかに、性交中の男女を描いたものもある。写実主義のクールベはレズビアンや女性器そのものといったものも絵にし、ポルノグラフィティの創始者にもなっている。
 絵描き達はどうしてそのような絵を描いたのか。それを読み解いていくことがテーマである。

ウィリアム・アドルフ・ブクロー ヴィーナスの誕生 縮小

 ウィリアム・アドルフ・ブクロー ヴィーナスの誕生 1879年 オルセー美術館収蔵

 『ヴィーナス誕生』といえばボッティチェッリだが、ブクローの『ヴィーナス誕生』は裸を隠そうとしない。長い髪をかき上げ、堂々と見せる裸は、片足に体重をかけて立つコントラポストの姿勢である。その美しい裸体は隠すものではなく、誇示するものだと言わんばかりに。

 芸術家も様々だが創作の動機というのは「美しいものを絵にしたい」という欲求から始まる。芸術の世界は歴史的に男性で占められていて、男性は本能的に女性の体に魅力を感じるようにできているので、必然的に女性のヌードを、より美しく描こうと試みるのは当然の流れだった。
 ギリシャ・ローマ神話をその文化的支柱にする西洋世界で、もっとも美しい裸体の女性といえば、「美と愛の女神」たるヴィーナスだ。よって官能的な芸術作品といえば圧倒的にヴィーナスが題材にされた。
 由来を話すと、天空の神ウラノスが、息子である時の神クロノス(サトゥルヌス)によって斃された時、切断されたウラノスの陰茎が海に落ち、そこから生じた白い泡の中から愛と美の女神アフロディテが誕生した。
 アフロディテの名はもともとアプロディシアゼイン〈性交する〉やアプロディシアスティコス〈好色な〉、アプロディシア〈娼館〉といった、多くの性的な用語と結びついていた。誕生の由来を遡ってみれば、ひょっとすると語呂のよく似た単語からの連想から創作された神だったのかも知れない。

サンドロ・ボッティチェルリ『ヴィーナス誕生』1485縮小

サンドロ・ボッティチェッリ ヴィーナス 1484~86年頃 ウフィツィ美術館収蔵

 『ヴィーナスの誕生』は数多く描かれたが、その中でもっとも有名なのは疑いもなくボッティチェッリの作品だ。だが本作品の注文主が誰なのか不明で、『美術家列伝』の著者であるヴァザーリが『春』と並んだ状態を観るまで、どこにあったかさえわからない。
 ボッティチェッリのヴィーナスはルネサンスで「復活」した美神を代表する。これはすなわち、ルネサンスになるまでヴィーナスが何世紀も眠っていたことを意味し、1000年近く続いたキリスト教的な禁欲的なモラルを打破したことを意味している。ヴィーナスが裸体で描かれたのは肉体美を賛美したかつての時代を取り戻す意味合いもあり、またキリスト教的価値観へのカウンターであった。
 十字軍以降盛んになった公益活動により、イタリア商人達は徐々に経済力を増していき、やがて同職人組合(ギルド、イタリアではアルテ)を組織し、やがて自治都市国家(コネーム)を実質的に運営するに至る。このコネームの政治形態は皇帝や教皇を頂点とする封建的な社会構造と大きく異なっており、彼らは先行する成功例を必要としていた。それこそがローマであり、古代ギリシャのポリス社会であった。これらの文化を蘇らせ、評価すること――これこそがルネサンスの本旨であった。
 だからこそヴィーナスは堂々たる裸で描かれたのである。

 ではキリスト教全盛期時代の中世でのセックス観とはどういうものだったのかを見ていこう。
 まず妻が生理中、妊娠中、授乳中は性行為を行ってはならない。水・金・土・日はセックスをしてはならない。他の曜日でも昼間はセックスしてはいけない。降誕節や復活祭の期間もセックスしてはならない。またセックスの内容でも、愛撫、ディープキス、オーラル・セックス、正常位以外の体位、一晩に2回以上のセックスも禁止。極めつけは「セックスで楽しんではならない」と決められていた。
 これらを破ると罪となり、懺悔してなにかしらの贖罪行為を行わなければならなかった。

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 悔悛のマグダラのマリア

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 悔悛のマグダラのマリア 1532年 パラティーナ美術館所蔵

 売春はどんな時代にもあったが、中世の頃は規制に晒されていた。
 神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世が1158年に発布した売春統制令は、売春婦だけではなく、買った客も同時に罰するものだった。逮捕された売春婦は、刑罰として残酷にも鼻を削ぎ落とされた。
 その半世紀後に出されたカスティリア王アルフォンソ8世による統制法は、対象をさらに細かくして実効性を上げた。これによって売春婦本人だけではなく、売春婦を雇う側と、その両者を斡旋する人(女衒)、さらに売春用の部屋を貸したものまでもが処罰の対象とした。
 トマス・アクィナス(1225~1274年イタリア)は精液中には人間がすでに存在しているため、オナンの罪(つまりオナニー)は殺人であるという見解を述べていた。1584年には神学者ベネディクティも同じ見解を述べ、夫婦間セックスは子作りが重要なのであって、快感を得てはならない、とした。
 バロック期によく描かれたものといえば娼婦の一生を描いた版画だった。これらの作品は1画面あるいは3コマ程度の物語になっていた。たいていは娼婦が厳罰を受けたり、孤独で悲惨な死を迎えたりする。梅毒で苦しむ展開も多い。売春をやめさせようという目的で作られた一種のキャンペーンである。

※ バロック 16世紀~17世紀初頭にかけたヨーロッパに広まった美術様式や文化のこと。

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ジョール・ジョゼフ・ルフェーヴル 洞窟の悔悛のマグダラのマリア 1876年 エルミタージュ美術館所蔵

 絵画の世界で売春婦と言えば『マグダラのマリア』だ。聖母マリアを除けば女性の聖人の中でもっとも多く描かれたモチーフである。だが、実は新約聖書にはマグダラのマリアが元娼婦とはどこにも描かれていない。新約聖書の中には数名のマリアが登場し、そのうちの何人かが混同し、そこから脚色されて生まれたものと思われる。「マリア」の名前は結婚した女性すべてに付けられる呼び名のことなので、混同されても仕方がない。古代ユダヤの地域では、結婚するまで女性に正式な名前が与えられなかった。
 ともかく「マグダラのマリア」が罪深い娼婦で、イエスに会ってから悔悛した女性……というストーリーは中世のベストセラー『黄金伝説』で描かれ、以降定着した。
 『マグダラのマリア』は興味深いことに、対抗宗教改革期(※)に数多く描かれた。聖人の存在そのものを否定する新教(プロテスタント)への対抗上、旧教(カトリック)側は諸聖人をむしろ称揚する立場を取り始める。マグダラのマリアのモチーフは、「いつ改心しても遅すぎることはない」という教えを体現した聖人として、改宗した新教徒たちへの回復運動に使われた側面もあっただろうし、おそらくは娼婦達に対しても描かれたのだろう。

※ 対抗宗教改革期 16世紀のトリエント公会議を頂点としたカトリック教会内の改革刷新運動のこと。カトリック改革とも呼ばれる。

ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニ 初夜

ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニ 初夜 1620年 ピッティ宮所蔵

 次に結婚を見てみよう。
 結婚もその時代によって様々。時代が変われば結婚観も変わる。
 「我が子」は本当に自分の子供だろうか。血の継承という観点のみならず、遺産相続の面からしても、生まれた子が本当に自分の子であるのか……は重要な問題だった。花嫁が処女であることが求められたのも、そういう事情によるものだった。
 処女のまま新婚初夜を迎えて、そこでめでたく妊娠すれば間違いなく自分の子供に違いない。そこで初夜をみんなで見守る「床入れ式」なるものが存在した。
 上に掲げたジョヴァンニの『初夜』はその場面を描いた作品だ。裸で迎える花婿と、今まさにベッドに向かおうとする花嫁。その花嫁の側で何か囁いている女性は、花嫁の親類で、これからすべきことを教えている最中だ。
 これからここにいる全員で結婚初夜を見守り、間違いなく“契約が履行”されるのをみんなで確かめるのだ。

ピーデル・ブリューゲル(子) 農民の婚礼の踊りa

ピーデル・ブリューゲル(子) 農民の婚礼の踊り 17世紀前半頃 個人所蔵

 当時の都会での結婚は商売相手の家同士や、政治的な戦略に基づく結婚が基本で、当人達の自由恋愛の権利はない。
 では農村の結婚とはどういうものだったのだろうか。ピーデル・ブリューゲルの絵に詳しく描かれている。
 『農民の婚礼の踊り』の主役である新郎新婦は、画面中央のテーブルのところにいる。だがそれは絵全体から見ると非常に小さい。絵画の主題は明らかに、結婚をかこつけて乱痴気騒ぎをはじめる村人達にあるし、実際農村の結婚風景はこのような姿だったようだ。
 村人達は気に入った相手とダンスをする。大股を広げて、性器を誇張するブラゲッタ(コッドピース)のついた股間を突き出している。画面左側では何組かの男女がキスをして、画面の右奥では森の中へ入っていこうとする男女が何組か描かれている。その当日の夜にはセックスが行われ、女は自分の家に戻らず、2人は翌日から模擬的な結婚関係に入る。各ペアに与えられた期間は1ヶ月。1ヶ月後妊娠していれば正式な夫婦となり、月経がくればペアは解消され、解消後は別のペアを求める。
 「恋愛」なるものは何もない。セックスをして、子供ができたら結婚、できなければ別のペアを探す……そういうものだった。村全体で労働人口を増やす……という目的があったから、農村ではこういう習慣が日常的になっていた。

ウィリアム・アドルフ・ブクロー 濡れたクピド

ウィリアム・アドルフ・ブクロー 濡れたクピド 1891年 個人所蔵

 再び神話を見てみよう。
 クピドほどその役割と重要性が変わってしまった神も珍しい。日本では「キューピッド」の呼び名が一般的だが、これはローマ神である「クピド」の英語名である。クピドの別名に「アモール」があり、これは今でもイタリア語の「愛」を意味する。ギリシャ神話でクピドに相当する神といえば「エロス」である。
 エロティシズムという用語の由来となっているので、淫靡な神を想像してしまうが、実際には宇宙誕生時に登場する重要な神である。あるバージョンでは、混沌から生まれた様々なものをエロスはカップリングを作っていき、「すべての素」を次から次へと誕生させていく。太古の昔からオスとメスがであって生命が誕生する原理はよく知られており、それを介在する神こそがエロスであると考えられた。
 ところが男女の恋愛を支配するアフロディテ(ヴィーナス)の重要性が増すにつれて、エロスはその抽象的な属性を次第に失っていき、この美神の従属的な立場に甘んじるようになってくる。紀元前5~前6世紀頃には、エロスは「女神の子、あるいはせいぜいその助手」としての役割しか与えられなくなる。
 それまでは青年の姿で描かれることの多かったエロスは、次第に低年齢化していき、最後にはほとんど幼児として描かれるようになる。無垢でやんちゃ。思慮がない幼児のエロス。この変化は、最初は青年の姿で描かれていたのが、やがて幼児として描かれるようになったキリスト教の天使とよく似ている。ちなみに翼を持った姿で描かれるようになったのは、翼を持った多神教の神々のイメージからの影響がある。

エティエンヌ=モーリス・ファルコネ クピド

エティエンヌ=モーリス・ファルコネ クピド 1757年 ルーブル美術館所蔵

 ファルコネの円柱の上に座り、口に指を当てているクピドの彫像は多数作られ、ルーブル美術館のみならずアムステルダム国立美術館、エルミタージュ美術館などに飾られている。
 クピドがこのような仕草をするというのはどんなシチュエーションであろうか。それはまず、「公にできない恋愛」の場面に登場する。愛の神クピドはあらゆる恋愛ごとをお見通しだ。そのために、愛人との逢い引きや、不倫関係の場面に、しばしばこの彫像が描かれることがあった。

ジャン=オノレ・フラゴナール ブランコ

ジャン=オノレ・フラゴナール ブランコ 1768年 ウォラス・コレクション

 ロココ時代の代表的画家フラゴナールの『ブランコ』の本当の意味を知るものは少ない。
 注文主の男爵は、愛人である女性を描くように言い、「司教が揺らすブランコに乗っているところを描いてもらいたい。そして彼女のかわいい脚が見えるようなところへ私の姿を書き入れて欲しい」と指示したという。
 司教はただの老人へと変更されたが、画面左下にいる男性が注文主の男爵。その男性の上に見えるのがファルコネのクピドである。ここにファルコネのクピドが描かれているということは、2人の男女がただならぬ関係である……ということを示唆している。男爵と女性が愛人関係という予備知識がなくても、ファルコネのクピドが描かれているとそういう関係である、と読み解くヒントになる。

アントニオ・カノーヴァ アモールとプシュケー

アントニオ・カノーヴァ アモールとプシュケー 1793年 ルーブル美術館所蔵

 次もクピドだが、その別名アモールを描いた作品だ。
 人間であるプシュケーは、美神がかすんでしまうほどに美しい女性であった。その美しさに嫉妬したヴィーナスは、ある日アモール(クピド)に、プシュケーと平凡な男が愛し合うように依頼する。アモールはさっそく実行しに行くのだが、誤って自分の胸を矢で突いてしまう。プシュケーに恋してしまったアモールは、正体を明かすことのないままプシュケーと結ばれ、夜ごと暗くなってからのみ寝床に入り込むようになった。
 ある晩、情事の後、プシュケーはランプを持って夫に近付くと、そこで眠る夫が人間ではないことに気づき、驚く。目が覚めたアモールはもっと驚き、そこに策略がうまくいかなかったことに怒ったヴィーナスの妨害が入り、2人の間は引き裂かれ、さらにプシュケーは永遠の眠りに落ちるのだった。
 この物語のラストはアモールが眠り続けるプシュケーを発見し、キスで目覚めさせ、2人はめでたく結ばれる……という結末で終わる。

 この物語は神話や伝説で見られるいくつの典型的なパターンで解説することができる。
 まずプシュケーが「見てはならない」と言われていた夫の姿を見てしまう物語は「見るなのタブー」と呼ばれるモチーフだ。民話の類型で「禁室型」、フランスの伝説に登場するメリュジーヌからとって「メルシナ型」とも呼ばれる。私たちがよく知るストーリーで言えば『鶴の恩返し』や、日本神話で黄泉の国に落ちたイザナミの物語に見られる。
 長旅に出て、難題や使命を乗り越えて最終的に宝を手に入れる「クエストもの」の形は『オデッセイア』、女性を主人公にした物語と言えば小説の『黄金の驢馬』をはじめとして、この形式の物語は現代でも絶えず作られ続けている。
 眠りに落ちたプシュケーを目覚めさせる結末は、『眠り姫』こと『眠りの森の美女』のラストと同じだ。
 プシュケーにはギリシャ語で「息」にあたる語で、そこから次第に「魂(心)」を意味するようになった。するとプシュケーがアモールを求めるこの物語は、「魂は愛を求める」ということへのメタファーとして解釈されるのだ。絵画の世界では「魂」はしばしば「蝶」の姿で現され、古来より蝶がサナギの中から旅立つのを見て、人々は人間の死体から魂が離れていく場面を連想したのだ。プシュケーの背中に蝶の羽が描かれがちなのは、そのためである。

 本書の紹介はここまで。
 西洋画の世界は長らく神話が題材になることが多かったために、掘り下げると神話のお話が多くなっていくのだが、それでも見えてくるのは神話時代の性と愛がいかにして考えられたか。神話の時代では性はもっと観念的なものだったし、生命の有り様として重要な一つだったし、また生命誕生になくてはならないものと考えられていた。
 中世頃にも性にまつわる絵画は多く描かれるが、そこから見えてくるのはその時代その時代の文化だ。その内実を掘り下げていくとその時代の人々がどう考えていたか、時代特有の考え方と生き方が見えてくる。逆にその歴史と文化観をきちんと知って観ないと、絵画を見誤ることになる。単に「女の裸」だけではない奥行きがそこにはあるのだ。

 画家は性を描く。それは単に猥褻物を描きたい……というその時代のタブーへの挑戦というだけではなく、もっと率直で素朴な美意識からの欲求だ。性、つまりセックスの中にこそ生命の喜びが描かれる。官能は女性だけではなく男性も魅力的にする。
 私は常々、「女の子はセックスをしている時が一番かわいい」と書いているが、確かにこれは私の個人的な性癖に部分的に絡む話だが、しかし私には行為中の女性のほうが肉体の存在感が際立つように感じられるし、また日常世界では決して見ることのない表情がなんとも私をときめかせる。どんな女性も、日常を越える顔――恥じらいに染める頬や、自身の体内から沸き立つ官能にとろける口元――をその瞬間に見せるのだ。こういう瞬間を愛らしく思えるのは、異常な感性とは思えない。
 性、あるいは官能の中にこそその人間の本来的な魅力が沸き立ってくる。それを知っているからこそ、昔から官能的な裸が評価されてきたのだ。ただかつてのサロンはそれを受容するために、「聖書と神話に限る」という、なんとも面倒くさい回り道を用意していたわけだが。

 中世は今よりもっと極端だったが、現代も再び性について語りづらい話をしてしまった。こういった話をYouTubeなんぞでやろうとしたら即BANである。動画は削除される。どんなステージのものであれ、性を話題にすると「猥褻」あるいは「セクハラ」と認識され、分類され、忌避の対象にされてしまう。そうなってしまうと、性の向こうにある文化観を語れないし、性の向こうにあるスプレマシーにも到達できない。歴史観の話も当然できないし、語れないと言うことは知識がそこだけすっぽり抜けてしまう恐れもある。いっそ、人間の大きな一面を否定し始めているといえる。現代、あるいは未来はそういう方向へ進み始めている。それは生命体として欠陥持ちというしかない。
 だからまずは軽めのおふざけとして性のお話から入り、そこから文化と精神と、さらに美と官能のというスプレマシーの話へと進めていく。
 『官能美術史』と聞くとなにやら淫靡な感じがして、そういう期待を持って本書を手にする人もいるだろう。そういう動機で構わない。だが現代の商業的なエロスだけではない、その内奥に潜む文化観を知るにはよい教科書になろう。


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