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読書感想文 絶頂美術館―名画に隠されたエロス 西岡文彦

 今回紹介するのは、『絶頂美術館』。「名画とエロス」の関係性を追求した本である。とどのつまりは名画を教養やスプレマシーといった視点ではなく、ずばりエロ目線で見てやろう……と。
 どうしてそういう目線で見るかというと、名画って「教養」だとか「権威」だとかが取り巻いていて、何かおかしなものを見付けても突っ込んではいけない……みたいな雰囲気がある。でもいわゆる名画というものをもうちょっと冷静な目で見て欲しい。女の裸だぞ! エロくないか! という以前に「なんで裸やねん!」と思わないか。
 本書はまずそういうエロ目線で改めて名画を見てみる。そうすることで名画の中にあるおかしみを発見し、そこからさらに進んで、名画を取り巻く時代や思想を読み解いていく、というお話である。

 まずは2枚の名画を見ていただくとしよう。

アレクサンドル・カバネル『ヴィーナスの誕生』1863

アレクサンドル・カバネル ヴィーナスの誕生 1863年 オルセー美術館収蔵

マネ『草上の昼食』1863

エドゥアール・マネ 草上の昼食 1862年–1863年 オルセー美術館収蔵

 アレクサンドル・カバネル『ヴィーナスの誕生』とエドゥアール・マネの『草上の昼食』である。  率直な意見を聞かせていただきたい。この2枚、どっちがエロい?

 ……ふむふむ。
 どうやら多くの人が『ヴィーナスの誕生』のほうがエロいと答えたようですね。うん、私も『ヴィーナスの誕生』のほうがエロいと感じた。
 ではどうしてこの2枚を比較して、どっちのほうがエロいか? と尋ねたのか?
 実はこの2作、同じ1863年のサロンに出品された作品で、方や「これぞ芸術!」と大絶賛され、方や「猥褻だ!」と酷評された作品なのである。「これぞ芸術!」と太鼓判を押された作品とは『ヴィーナスの誕生』のほうで、「猥褻!」と酷評されたのが『草上の昼食』のほう。当時のフランス人にとって『草上の昼食』のほうが耐えがたいものがあったのだ。
 現代人の感覚として『ヴィーナスの誕生』のほうがエロいと感じると思うのだが、当時の人たちはどうしてそのようには判定しなかったのだろう? その理由について追及していくとしよう。

サンドロ・ボッティチェルリ『ヴィーナス誕生』1485縮小

サンドロ・ボッティチェルリ 『ヴィーナスの誕生』1485年。

 アレクサンドル・カバネル『ヴィーナスの誕生』はかの有名なボッティチェルリの『ヴィーナスの誕生』と同じ題材を描いた作品である。今風にいうと「名作リメイク」である。ボッティチェルリの『ヴィーナス誕生』はその以前から続いていた様式的なビザンツ美術の名残をまだ少し感じさせるが、新しい時代を予感させる作品で、当時として画期的な一作である。ゲームで例えると、それまで2Dしかなかった時代にいきなり3Dポリゴン来ちゃいました……くらいの衝撃度のある作品だった。といってもそれも「初期時代」なので、いま見ると物足りないものがあるけども。
 そのボッティチェルリの400年後のリメイク作がアレクサンドル・カバネルの『ヴィーナス誕生』だ。さすが400年が経過しているともあって、筆の扱いはずっと洗練され、人物の描画はリアルだし、波の描き方も真に迫っている。
 不思議なところもあって、カバネルのヴィーナスはいったいどこに寝そべっているのか? 波の上、つまり液体の上である。にも関わらず、ベッドの上にいるように波の影響を受けず、体は濡れてもいない。よく見ると髪の毛先が一部水に沈んでいる部分もあり、波の上に浮かんでいるのか、それとも波の干渉を受けているのか、曖昧である。そういう曖昧さ、というかよくよく考えると不自然な状態のものを事もなげに成立させてみせる……ここに絵画特有の面白味が見て取れる。

 カバネルの『ヴィーナス誕生』を鑑賞するポイントだが、上半身と下半身に分けてみる。というのも、上半身と下半身で少し時間軸にズレがあるからだ。
 まず下半身、足の指先を見ていただきたい。緊張して指先が反り返っている。顔や上半身の緊張は自覚的にコントロールしやすいのに対して、足の緊張は無自覚になりやすいものである。上半身は気が張っているのに膝から下が震える……ということはよくあることだ。
 ということは足先を見たほうがその人間がどういう心理状態にあるのか、把握しやすい。
 ではカバネルの『ヴィーナス誕生』の足先からどのような心理状態が読み取れるのか。それは性的なエクスタシーである。絵画に限らず、写真や映画の表現でも、女性の性的なエクスタシーを足指の状態で表すというテクニックがあり、隠しても隠しきれない歓喜の証、という男性好みの定番のビジュアルとなっている。
 おっと失敬、文章が教養に傾きすぎたようだ。率直に表現すると、
「あ~ん、イクゥ~♥♥ イっちゃう~~♥♥♥♥(ビクンビクン)」
 という瞬間の足指である。
 足指のニュアンスを堪能したところで、視点を少しずつ上へ上へと行ってみよう。
 すると上半身はだらりと投げ出され、指先には緊張がなくなり、表情を見ると脱力しつつ頬を赤らめ、意味ありげな流し目をこちらに向けている。
 どういうニュアンスか、もう了解いただけていると思うが、あえて書こう。
「……すごく、良かったわよ♥」
 という瞬間の顔である。
 要するに足先が行為中で、胸から上は事後である。

 一見リアルな絵のように見えて、嘘がある。この絵に限らず、絵は様々な側面を同一の画面に描かれている……ということがよくある。『ヴィーナス誕生』の場合は上半身と下半身で異なる時間軸が描かれているのだが、こういう絵は珍しくなく、複数の状況が1枚絵に凝縮している絵というのは結構ある。ここが写真と違うところで、写真は基本的に“その瞬間”のもの、決定的瞬間を捉えるものだが、絵画は時間や状況を操作して、理想的な一場面を絵の中に描くものなのである。
 オッパイの描き方にも嘘がある。現実のオッパイは重力の影響を受けやすいため、乳首がツンと上を向いているのはおかしい。もう一方のオッパイは小さすぎる。本来ならもっと手前側に垂れていなければならない。左右のオッパイでサイズが違いすぎる。
 どうしてこのような嘘を描いたかというと、やはり見栄えをよくするため。どうして上を向いたオッパイがこの形になっているのかというと、そこだけ絵を平面で捉えているから。オッパイの形とその先端にある乳首の形を描きたかったのだ。さてはカバネル、美乳好みだったのだな。自分の理想のオッパイを求めて、平面上で美しく見えるオッパイの形を模索した結果、この形に行き着いたのだろう。
 というここまでで、カバネルの『ヴィーナス誕生』がいかにエロいか了解していただけだと思う。

マネ『草上の昼食』1863

 ではもう一方のマネの『草上の昼食』を見ていくとしよう。
 『ヴィーナ誕生』と同じく1863年に発表されたマネの『草上の昼食』。この作品を持ってマネは「印象派のはじまり」と間もなく祭り上げられることとなる。
 ところがマネは自身を「印象派の作家」とは思っていない。それどころか、伝統的なアカデミズムの継承者と考えていて、印象派の作家や作品を嫌っていた。今回の作品『草上の昼食』も古典に忠実に描いたつもりの作品だった――マネ自身は。

 『草上の昼食』には元ネタとなった作品がある。ティツィアーノ『田園の奏楽』(1510)がそれである。

ティツィアーノ『田園の奏楽』

 比較してみるとわかるが、『田園の奏楽』の背を向けている女性が、『草上の昼食』ではこちらを向いていて、中世風の楽器を持った2人の男が現代風の衣装に替わって配置も左右逆になっている。これはカメラの置く位置を逆転させた構図となっている。
 『田園の奏楽』の左手前に裸の女性がいるが、マネの『草上の昼食』にも登場している。カメラ位置を奥手前を入れ替えたのが『草上の昼食』だから、一番奥にいるのが『田園の奏楽』の手前にいる女性だ。
 ではマネがやったことはなんであるかというと、名作へのリスペクトをはっきり残しつつ、登場人物の衣装を現代風に差し替えただけ。要するにこちらも実は「名作リメイク」だったのだ。

 ところが『草上の昼食』は発表時、ありとあらゆる罵声を浴びせかけられた作品だった。文豪ゾラが詳しくレポートしているが、『草上の昼食』が展示されている部屋へ入ると、そこには嘲笑と哄笑に満ちあふれていたという。身悶えして笑う若い男もいれば、長椅子にへたりこんで息を詰まらせる夫人もいた。
 間もなく「珍妙な絵が飾られているぞ」と噂になって人々が殺到し、見た人から「正気の沙汰ではない!」「腹がよじれる」と言った感想が次々に聞こえたという。当時の新聞には「人々は笑うためにこの会場を訪れるが、出るときには不安と混乱に包まれることになる」と書いている。

 しかしこの作品のどこが悪いのか? 2020年代の私たちにはピンとこないものがある。
 まず2人の男が着ている服がその時代と同じものだった、ということ。その当時の“常識”に基づけば、絵画に出てくる登場人物はみんな神話の衣装を着ていなければならない。さらにその男の横には裸の女がいて、しかもその女がカメラ目線でこちらを見ている。ヌードも当時の人たちからしてみれば非日常のものだったから、裸の女を登場させるにしても神話や聖書という、その時代の人たちにとって非現実的な世界観の中でしか許せなかった。
 それなのに、『草上の昼食』では現代の世界観で、今にも人が通りかねない日常的な場所で、こともなげに裸を晒している。なのに2人の男は裸の女が側にいるのに意に介していない。この状況の奇妙さ。
 しかも裸の女はこちらを見ている。これが19世紀当時の人たちにとってなんともいえないエロスだった。裸の女がいて、こちらを見ている、要するに第4の壁を通過してこちら側に意識を向けられているような気がする。こういった表現がかつてないものであったので、19世紀のフランス人達は「裸の女」が絵画の中で描かれている、というエロスに溜まらなくなり、この絵の前に来て「猥褻だ!」怒り狂い、あるいは大爆笑した。
 2020年代の私たちからしてみれば、裸の女がこちらを見ているビジュアルなんてそれこそいくらでもあるので逆にわかりづらいかも知れないが、19世紀時代は前例がなく、これがゾクゾクさせるような不道徳感をもたらしたのだ。

 マネはこの作品を持って「印象派を作り出した」と評価されることとなり、印象派作家の旗印とされ、その先頭に立った画家という評価が付いてくるが、しかしマネはそんなつもりはまったくなかった。マネは実直に古典を勉強し、そのリスペクトを作品の中に反映させた。『草上の昼食』でも『田園の奏楽』を単にカメラ位置を反転して、登場人物を現代人に置き換えただけだった。それがこんな大騒動になるとは想像もしていなかった。
 マネはその後もずっとサロンで成功し続けることを夢見て作品を生産し続けるが、しかしその大半は落選に次ぐ落選。作品を発表するごとに“異端の作家”としての評価が定まっていき、モネやクールベたちから尊敬のまなざしを向けられるようになる。そんな新時代の印象派画家達を、マネは最後まで軽蔑して距離を置き続けたという。

ホイッスラー『白い服の少女』1862縮小

 ついでなので、他のサロン落選作品を見ていくとしよう。
 上に掲載したのはホイッスラー『白い服の少女』1862年作である。こちらの作品も「落選者展」で失笑された作品である。
 落選者展は本家サロンと違って美術の好事家が通う感じではなく、どちらかといえば興味本位の見物客が中心で、笑いものにするネタ探しに来ている……という感じだった。1863年はそういう意味で大当たりの年ともいえ、人々は2点の奇妙な作品に集中した。その1点がマネの『草上の昼食』で、もう1点がホイッスラーの『白い服の少女』だった。『白い服の少女』も見た人は大爆笑して罵倒しまくった作品だった。

 この絵のどこに笑える要素があるのか? やはり2020年代の私たちからすればピンと来ない。  それを読み解くために、19世紀の「美術観」というものがどういったものだったか、から考えるとしよう。
 当時の絵画の技量は、空間の奥行きと立体の陰影表現の巧みさで判断されていた。奥行きを感じさせない、例えば真っ黒な背景というものは、当時の絵画技術の基本から大きく逸脱しているものと感じられた。
 『白い服の少女』も同じ理由で、白いカーテンを背景にした白い服の少女の絵だ。これも当時の感覚で、陰影らしい陰影のない真っ白な服は、「何も描かれていない」と同じだった。何も描かれていない、ということは「未完」でしかなく、絵画芸術の世界ではタブーだった。
 つまり、
「こいつ、何も描いてないのに出品してやがるぞ」
 ということで笑われたのである。

 ところが描き手であるホイッスラーの狙いはまさにそこだった。「どうして白い服を描いちゃいけないんだ?」という素朴な疑問があり、白い服を着ていながらいかに存在感ある絵に仕上げてみせるか。それに挑戦した絵のつもりだったが、19世紀では「早すぎる作品」でしかなく、落選するどころか失笑されてしまったのが残念である。

 ちなみに『草上の昼食』も『白い服の少女』も現代では「名画」である。時代認識はこうやって変わっていくものである。

 それでは、19世紀時代の絵画がどのように考えられていたのか……を見ていくとしよう。なぜ『ヴィーナス誕生』がアートで、『草上の昼食』がポルノとされたのか。それを紐解いてみよう。
 そもそもなんで絵の中に登場してくる女性は裸なのか。その理由を神話や聖書を読み込んでいってもわかるものではない。というのも裸である理由は神話の中に描かれているのではなく、ただの口実に過ぎなかったからだ。
 19世紀頃というのは神話や聖書、あるいは歴史の一場面である、という明確な理由をなくしてヌードを描くことは許されていなかった。ボッティチェルリの『ヴィーナス誕生』でもただの裸ではなく、たったいま波の中から生まれたからこそ裸なのだ……という理屈が必要なのである。
 絵画とは約束事の世界で、もしも森で水浴している裸の女……というシチュエーションならばそれはギリシア神話に登場する女神ディアナで、その水浴の場面に老人が覗き見していたらそれは聖書の「スザンナの水浴」である。また水浴中の女性が手紙を読んでいれば、聖書のダヴィデ王に愛されたバテシバである。

 とこのように、なんでも自由に女の裸を描いて良いわけではなく、そうした絵画の中の約束事をきちんと守らなくてはならなかった。そのルールを破ったから、『草上の昼食』はポルノだと酷評され失笑されたわけである。事実として、『草上の昼食』以前に、神話や聖書とは無関係の、世俗の女性の裸が描かれ、公にされたケースというのはほぼなかったという。
(『裸のマハ』は? と思われるがあれは一般的には非公開の場だった。マニュエル・デ・ゴトイ宰相が依頼主であり所有者だったのだが、展示されていたのは個人の邸宅の中のさらに秘密の部屋だった。ちなみに『裸のマハ』は絵画史上初めて陰毛が描かれた作品である)
 近代以前の絵画に描かれたヌードの目的は、基本的に一つしかなかった。それはヌードを描くことそのものである。
 もしも現代のようにヌードを自由に描いていいような時代であると、神話や聖書をテーマにした裸の女には、それなりの意味が伴ってくる。世俗の裸体では表現できない崇高なイメージや、波瀾万丈を予感させるストーリー、ドラマティックな演出がそこに与えられる。
 19世紀頃というのは、そういう“崇高な”裸なら許容されたのである。世俗の裸を描くことが許されない時代にあっては、裸が出てくる物語なら、聖書であろうが神話であろうが、口実として利用しない手はなかった。

 こんなふうにヌードが厳しい規制の対象になったのは、キリスト教による価値観が大きかった。  キリスト教が支配的になる以前、古代ギリシアや古代ローマ時代にはここまで厳しいヌード規制は存在していなかった。むしろそういう時代は人間の肉体は美しいものとされていて、宇宙を構成する数学的な比率の法則のもっとも美しい実体が人間の肉体の中にある、と考えていた。そうした時代はむしろ裸が描かれることが奨励されていたわけである。
 こうした人間賛歌、肉体賛美の時代が古代ギリシア・ローマ時代の特徴だったが、後にやってきた中世キリスト教は対照的に、霊魂重視の思想だった。
 キリスト教によれば、肉体は霊魂という人間の崇高な本質がまとう貧しい衣に過ぎない。人間が地上で営む生活は、天上界に昇ることを願ってやまない霊魂が、肉体の牢獄に縛られているがゆえに送らざるを得ない不自由そのものの象徴と見なしていた。
 そういった次第でキリスト教史観が支配的な世界において、人間の肉体や美しさが認められるはずがなく、むしろ悪魔の誘惑に用いられる退廃的なものと見なされるようになった。ヌードが芸術の中から禁じられたのはそういう理由である。

 ところがこうしたキリスト教観にははっきりした矛盾があり、人間が純潔であることを守ろうとすれば子供が生まれてこない、という根本的な問題を孕むことになる。そこで教会も「建前」と「本音」を使い分ける。
 絵画もまた「建前」と「本音」を使い分けることとなる。表向きには教会の言いつけを守りつつ、裏の本音では人間の生とは切っても切れない関係である「性」を描く。そのための口実として神話や聖書の一場面が描かれるようになった。

 当然ながら裸を描くのだからそこには「官能」が同時に描かれるわけで、いっそ、その「官能」の度合いが強烈であるかどうかでその作品の価値観が決められていたといってもいい。はっきりいってしまえば、カバネルの『ヴィーナス誕生』が絶賛された理由とは、エロかったからだ。エロかったからみんなあの作品を褒めたのだ。
 しかし19世紀のフランス人はそういうことを表立って言わない。「神話の世界が忠実に表現されている」「デッサンが正確である」……そういうことを評価の基準としていて、本音の部分、作品のエロさについては口裏を合わせたように黙る。当時の権威的な人たちは、こういう何重にも建て重ねた迂遠な「建前」を通してようやくエロい絵を受容していたのだった。女の裸という社会的タブーをいかにして公の場に引っ張り出すか……そのための仕立てを作り、その仕立てを前に共有の了解を得て、その上でエロい裸を共有する。こういう面倒くさい経路を通じて、ようやくエロ絵を受容する……当時の本音を暴露してしまうと、アートとは権威的な人が堂々とエロい絵を共有するための場だった、ということもいえてしまう。
 一方の『草上の昼食』はそういう仕立てなしに女の裸が出てきてしまったから、「お前、ちょっと待てよ」となってしまったわけだ。

 本書の紹介はここまで。
 「名画をエロ目線で見る」ここだけ切り取ると不遜な感じがするのだが、だがそうすることで名画をいったん「普通の絵」として捉え直し、その絵にどういう意味があるのか、またその絵が描かれた背景にはどんな価値観が潜んでいるのか……そういう意味を問い直す本であった。
 「名画だから素晴らしい作品のはず」……この思い込みだけで見ていると、その絵にどういった意味が込められているのか、永久にわからないままになってしまう。そういった思い込みをいったん捨て去るのに「エロ目線」という考え方を持ってくるのはいいアイデアだ。「エロ目線」という言葉を持ってきてしまうと、途端に何もかもが軽く感じられ、凝り固まった思考をほぐすのにちょうどいい。

 それに……実際名画とはエロい。なんでこうもムチムチのエロさを湛えているのに、「芸術だからエロくない」という言われ方をするのか。カバネルの『ヴィーナス誕生』なんてエロいに決まってるし、ウィリアム・アドルフ・ブクローの作品なんてどれもエロい。ブクローは時代が違えば完全にエロ絵師だ。
 なんでエロい絵が、表向きにはエロくない……という視点で語られていたのか。それは当時の人々の価値観がある。表向きにはエロい絵を共有するわけにはいかない時代があったからこそ、神話や聖書という題材を持ってきて、表面的な“崇高”という額装を組み立てて、そういう迂遠さを経てようやくエロい絵を共有することができた。でも本音は単にエロ絵を見たかっただけだ。
 時代が変わって、当時の人々の「建前」と「本音」がわからなくなり、「建前」だけで作品を見るようになった。美術の教科書を見ると、様々な絵画が載っているが、授業の中でその歴史や内実がまったく掘り下げられないから、それぞれの作品をどう見るべきなのかわからない。それが我が国の美術教育の“空洞”を作る原因になっているのではないか。

 「美術と教養」というテーマを少し話を掘り下げよう。日本のアートは「印象派以後」の作家が絶対的な権力を持ちすぎている。その現象が、よく言われる言葉「写実的な絵はつまらない」というつまらない論評。どうして「写実的な絵はつまらない」という言い回しがこうもアートを何も理解していない一般層に拡散してしまったのかというと、印象派以後の作家が日本において権威化し、アートをなんだかよくわからないものにしてしまったからだ。
 印象派やそれ以後の絵画というのは、当時の権威に対するカウンターだったのだが、そのカウンターとしての意義が今や完全に失われてしまった。19世紀時代の権威は確かに閉鎖的で、一定の規定に沿わない絵は全て「芸術ではない!」と切り捨てていた。神話と聖書を題材にしていなければダメだったし、絵の書き方についてもデッサンや陰影が精密に描かれていなければダメ……結果的に似たような絵ばかりになる、というダメな悪循環を生み出していたが、権威的な人ほどその現状に無関心だった。
(どんな時代も、どんなジャンルでもいわゆる“玄人”が先頭に立ってしまうと、文化は発展性をなくし、ダメになっていく)
 権威的な人というのはどんな業界でも権威を守るために、閉鎖的な思想の持ち主になりがちだ。アートの世界でもそれは変わらず、この世界の権威になった人は自分の気に入らないタイプの絵は全部切り捨て、仲の悪い画家の絵はぜんぶ切り捨て……というのを平気でやっていた。

 日本の画壇でも似たような傾向があり、ある一定以上のランクが上がってくると、作品の善し悪しではなく政治の話になり、権力を持ちそうな画家の後ろについてヨイショしまくらないと出世できない世界になる。絵画の世界は実力や才能だけでのし上がれる世界ではなく、出世すれば出世するほど、政治性を発揮せねばならなくなる。
 アートをやっている人は、気持ちが純粋そう……と思われるかも知れないが、実体はそんなことはない。めちゃくちゃに権威主義的だし、排他的な行為をいくらでもやっている。
 漫画・アニメの世界には手塚治虫と宮崎駿という大巨匠がいるが、この2人の人格を掘り下げていくとなんとなく了解してもらえるのではないかと思う。
 そうした権威に対するカウンターとして現代アートが生まれたのだが、それが今となっては権威化して、なんだかわからないものばかりを賞賛するようになった。古典的なアカデミズムや実直なデッサンの追求、陰影描写といった誠実に描かれた絵はまるごと「つまらない絵」と切り捨てられるようになってしまったし、そういう絵について一般層でも「写実的な絵はつまらない」と言わせるような現状を作ってしまった。

 画家が踊りながら墨を振りまいている意味不明のパフォーマンスなんか見ていると、「アートとはなんだろうか?」と深く考えるようになる。
 私の意見をはっきり言わせてもらえば、印象派以後から現代までのアートは「虚ろ」だ。あんなもの「虚無」だよ。ボクシンググローブに絵の具を付けてキャンバスを殴りつける、というパフォーマンスにしても、そもそもパフォーマンス自体つまらないし、仕上がった絵もつまらない。あんなものに価値を与えちゃダメだよ。「アートだから意味不明でも許される」という風潮を許してはならない。「考えるな、感じろ」という説明は、バカの言い訳だ。19世紀や20世紀初頭は確かにカウンターとしての意義はあったかもしれないが、そのカウンターが権威化した今、現代アートの意義は形骸化したとはいえないか。そろそろ「意味不明なアート」に対するカウンターが必要な時期じゃないか。

 と本書の感想から逸れるような話をしてしまったけど、これも大事な部分だと私は思っているところで、アートは権威主義に陥りやすく、権威主義は前提となる「建前」が存在するのだが、その建前のみでアートを語り始めると本質を見落としてしまう。名画をエロ目線で見てやろう、というのも建前を突き崩すための手法の一つだし、現代の「意味不明なアート」も権威主義化して反論しづらい空気があるが思いきって「無意味だ」と言ってしまうことも大事だ。本書はそういう視点を変えるための1冊としてはアリだろう。


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