【短編小説】砂浜の家
陸上部の先輩の影響で、来年のトライアスロン高校生大会への参加を最近になって決意した太郎は、久々に家族と来た海岸でひとり遠泳の練習を終えた。沖にある小島までの往復で約3キロ……それでこんなにへたってたんじゃ、まだまだだな……疲労で重たい体を引きずりながら、砂浜に足跡をてんてんと刻んでいると、左の二の腕にくくりつけた防水ポーチの中の携帯電話がぶるぶると震えた。取り出してみると、母からだった。
「何?」
──太郎、あなた今どこにいるの?
「海から上がって、そっちに向かってるとこ」
──近くに海の家あるでしょ? ビール2本買ってきて。
「めんどくせえなあ……分かったよ」
開けっぴろげな海の家でビールを買ったあとにソフトクリームの看板が目に入り、太郎は自分用にバニラ味をひとつ買い足した。食べながら母たちのもとへ戻ろうとしたが、砂浜の形状が明らかに先ほどと変わっていた。テントのように三角に隆起していたり、日干しレンガの家のような壁がいくつも連なっている。太郎は母に電話した。
「ねえ、ママがいるところはどこ?」
──1番高いところよ。
「はあ? 高いところだらけなんだけど」
──とにかく1番奥の1番高いところを目指しなさい。そうしたらすぐ分かるわ。
電話を切り、目をこらして良く見てみる。松が5本並んでいる遠くのあたりがとりわけ高いようだ。しかしそこを目指そうにも、迷路のように入り組んでいる砂壁の隙間を縫ってのぼっていかなければならない。試しに1番近い路地に入り、様子をうかがいながら歩いていると、部屋の中が丸見えの扉のない家があり、壁の上方に空いている小さな窓の下の薄暗い中に、原型をとどめていない砂色のワイシャツと黒い長ズボンを履き、痩せこけて髪も髭も伸ばし放題のひとりの男がぼうっとして椅子に座っているのが目に入った。見覚えのある顔だった。
「……恵一おじさん?」
太郎が恐る恐る声をかけると、男はうつろな目をゆっくりと声のする方に向けた。
「おう、太郎か……」
太郎が親戚中で唯一敬愛する母の兄・恵一の変わり果てた姿だった。太郎は恵一に近づいて、真正面に立った。
「どうしたの? おじさん……海外勤務になったんじゃなかったの?」
「ああ……あれは嘘だ」
「嘘って……何があったの? どうしてこんなところにいるの?」
恵一は太郎から目を離し、前方の出入口に視線を定めた。
「……知っているか? ここの砂は願望を具現化するんだ」
「願望を具現化……?」
「俺は俺の意志でここにいる」
「なんでだよ、こんな何もないところに……」
「俺は人殺しになりたくないんだ」
「人殺し?」
恵一は静かにため息をついてから続けた。
「……褒められた話じゃない……妻に浮気されたんだ……それを知ったときに、俺は妻の首を絞めた。ふと我に返らなかったら、本当に殺すところだったよ……あいつは俺のもとから去った。でも俺は、絶対に探し出して、俺を辱めた罰としてあいつを殺して、俺も死んでやるとばかり思っていたんだ……完全にイカれてたよ……そんなときにここの砂のことを知って、殺さずに済むように願ったんだ……そうしたらこうなった」
「ずっと閉じこもったままってこと?」
「そうだ。外に出ればまたあいつを探し出しかねないからな……」
「そんな……他にも幸せになる道があるんじゃないの?」
「はは、幸せか……殺さないでいられることが俺の幸せなんだ。お前だって、殺人鬼の甥っ子なんて嫌だろう? 出て行こうと思えば簡単に出て行けるんだ。この通り扉はないし、外界ともすんなりと繋がっているからな。そして、ここに居続けられることは、俺の自己満足の問題でもある。殺人の衝動に打ち勝っているという証明になってるからな。俺はこのままここで果てて、砂に骨を埋めるつもりさ……そうなれば本望だよ。もし万が一、またお前がここに来て俺の骨を見つけたら、砂に埋もれたままにするか、海に投げ捨ててくれ……お母さんには絶対に言うなよ。これは俺とお前だけの秘密だ」
太郎は涙をこぼしながら恵一の前に膝をつき、互いにまじまじと見つめ合った。恵一は両手で太郎の頬を挟み、親指で優しく涙を拭い続けた。
「太郎、もう高校生になったんだから、こんなにめそめそ泣くなよ……俺とお前は、お前が小さい頃からウマが合ったよな……お前が俺の息子だったら良かったとずっと思ってたよ……お前は俺の希望だ。いいか、絶対に俺のようになるなよ。後悔しないように生きるんだぞ」
「おじさん……」
太郎は垂れてきそうになった鼻水を、ビールの入った袋を持っている右手の甲で拭った。恵一は太郎の顔からそうっと手を離し、開いた両足の間に力なくぶらんと投げ出した。
「それから、この砂だ。願望を具現化すると言っても、それに気づいている奴はほとんどいない。その願望が快楽に関するものだったとしたら、夢を見ているのと同じ状況をこの砂が作り出すと言ってもいい。砂から出て、願望が叶っている状態が去っていったら、ああ、あのときはラッキーだった、もしかして幻だったんじゃないかくらいにしか反芻されないんだ。快楽は苦痛ほど意識されないし、すぐに慣れるからな。気をつけないといけないのは、他人の願望に飲み込まれてしまうことが往々にしてあるということだ。利用されているだけだということを、被害を受ける前に気がついて逃げるんだ。自分で見極めるんだぞ。だれも助けちゃくれないからな。これは俺がお前にできるたったひとつのアドバイスだ」
太郎は泣き腫らした赤い顔でこくんと頷いた。恵一は太郎の頭を右手でわしゃわしゃと撫でた。
「良い子だ。分かったならもう行くんだ、太郎」
力なく立ち上がった太郎が体をひるがえして出入口へ向かうと、部屋の隅に置いてある高さ1メートルほどの細長い黒い樽のようなものが目に入った。
「おじさん、あれは何?」
「水瓶だよ。雨水をためて使っているんだ」
「食べ物はどうしてるの?」
「ああ……ここに閉じこもっていると言ったが、やはり俺も人の子なんでね……空腹でどうにもならないときは波打ち際まで出るんだ。聖書に"蝗と野蜜とを食せり"とあるだろう? それが海の近くに住んでると"貝と打ち上げられた海藻"に変わるんだ」
死のうと思っている人間から、果たして食べ物に関する話が出てくるだろうか? もしかしたら恵一はこの生活をまんざらでもないと思っているのではないかと太郎は感じ、そこにひとつまみの救いがあるように思われて嬉しくなった。
「じゃあ行くよ、おじさん」
恵一は両膝を押さえ、軸にしながら立ち上がった。
「おう……ああ、もうひとつアドバイスだ。アイスは溶ける前に食え」
太郎の左手を指差しながら恵一が言ったので、目の前にソフトクリームを持ってくると、豚の尻尾のようにくるっと丸いのぞき穴を作っていた最上部が形を失い、ずるっと落ちそうになったので、太郎は「あっ」と小さな叫びを発し、ぱくっと口に含んで垂れるのを防いだ。
「ははは! セーフだったな」
最後に恵一の笑い声が聞けて、太郎は満足だった。2人は微笑みを交わしながら別れた。恵一夫婦が子どもを授かっていたら、こういうことにはならなかったかもしれないな……不妊治療をしていると母から聞いたことがあったが、今になって初めて思い出し、やるせない気持ちに支配された。
ソフトクリームを舐めながら路地を歩き続けたが、松へ近づいているようには思えなかった。階段状になっている壁が目に入り、そうだ、屋根を伝って行けば近いんじゃないかと思いついた。壁の階段を駆けあがると、砂の家々が幅の大きな階段に見える。まるでパルクールだと思いながら、松を目指してポーンポーンと大股で屋根から屋根へ飛び移っていった。ひときわ高い壁に行き当たり、アイスのコーンをくわえながらジャンプし、両手でその壁にぶら下がり懸垂してよじ登ると、その家には屋根がなく、ベッドに腰かけたコーヒー色の肌をした50歳前後と思われる男女が水着で睦み合っているところに出くわした。2人同時に太郎のことに気がつくと、女が太郎におりてくるよう手招きした。かあっと頬を赤く染めた太郎はどうしてよいか分からず、その場に立ち尽くしていると、
「おりていらっしゃい」
と女が言い、男が太郎の下まで来て腕を伸ばした。
「ほら、捕まって」
太郎は言われるままにその手をつかみ、部屋に飛びおりた。男が太郎の腰に手を回してベッドまで導いてくる間に、ビキニ姿の女は座ったまま姿勢を正し、長く垂らした髪を片方の肩の前に持ってきた。2人とも不自然なほどに体のいたるところの筋肉が盛り上がり、オイルを塗った皮膚は黒く光っていて、ボディービルダーだろうと思われた。太郎を女の隣に座らせた小さな男は、黒いブリーフだけ身につけ、見事な逆三角形の上半身を短い足に乗せ、ひょこひょこと歩く姿は滑稽でもある。男は太郎の持っていたビール入りの袋をサイドテーブルの上に置き、食べかけのアイスのコーンを自分の手に移し替えてから、壁ぎわにある椅子をベッドが良く見える部屋の中央に移動してそれに座った。女と太郎のことをじっと見据え、ほんの僅かな動きさえ見逃すまいとする鋭い視線が部屋中に張り巡らされる中、女は目の前にいる太郎の上半身を、白く長く尖ったネイルで傷付けないよう、上手く指の腹で撫でまわしながら言った。
「水泳してるわね……程よく焼けて、素敵な肉付き」
太郎を見て微笑んだ女の、異様に黄色い歯が目についた。
「お顔も綺麗ね……若くてピチピチして初心で理想的だわ……ねえ? あなた」
意見を求められた男は軽く頷き、えぐるような目つきで女と太郎の顔を交互に見た。女は薄ら笑いを浮かべ、男の反応に満足しているようだった。太郎は何が始まるのだろうかと、ただただ恐ろしかった。すると突然、女が太郎に抱きつき、太郎の胸に顔を擦りつけた。
「ああ! この匂い、肌触り……食べちゃいたい」
と言って太郎の胸をべろりと舐めた。ぎくっとした太郎は飛び退いて、背を向けて男の正面に立ちふさがった。はっとして後ろの男を見ると、
「Go on(続けて)」
と上目遣いで、妙に甲高くかすれた声を発した。急に寒気を感じた太郎が女に視線を戻すと、女はいたずらな笑みを浮かべた。
「大丈夫よ、安心なさい。この人は私が他の男に抱かれているのを見て興奮するタチなの。あなたに危害を加えることはないわ」
太郎はそのとき、恵一の放った「他人の願望に飲み込まれてしまう」という言葉は、まさに今のこの瞬間のことなのではないかと気がつくと、腹の底からむらむらと怒りが湧いて出た。
「ふざけるな!」
太郎の突然の叫びに、2人とも目を見開き体をこわばらせ、動かなくなった。太郎が助走をつけて壁に飛び移ろうと1歩踏み出した瞬間、ビールとアイスのコーンを置きっぱなしだったことを思い出した。くるりと向きを変え、急に近づいてきた太郎に殴られると思い反射的に頭をビクッと下げた男の手からコーンを奪い、自分に注がれる女の怯えた視線を痛いほど感じながらそちらには目もくれず、サイドテーブルの上のビニール袋を急いで取り戻し、またコーンを口にくわえて、タタタと3歩で勢いをつけて壁に手をかけ、懸垂してのぼり切り、松を目指して屋根づたいに駆けていった。怒りがおさまって少し落ち着きを取り戻すと、恵一おじさんのおかげで俺は見極めることができたぞと、己れに打ち勝てた気がして優越感に浸った。おじさんは「自己満足の問題」と言ったが、こういうことなのかな……
トライアスロンのトレーニングと思って走り続けていたが、突如限界を悟り止まった。うなだれて膝に手をつき、ふいごのようにひゅうひゅうと甲高い音を奏でる自分の呼吸と、ぼとぼとと落ちる汗のハーモニーを聞きながら、日干しレンガの屋根に吸い込まれてゆくシミの変化するさまを見つめていた。
「太郎くん」
どきりとして背後から発せられた声に振り返ると、3月までクラスメイトだった真衣がすぐそばに立っていた。中学の卒業以来だった。太郎は好意を抱いていたが、結局何事もなく別々の高校に進学し、それきりとなっていた。この動悸は走ってきたからなのか、真衣と再会したからなのか、どちらか分からなかった。
「のど渇いたでしょう? これ飲んで」
「あ、うん、ありがとう」
真衣の差し出したキンキンに冷えたペットボトルのミネラルウォーターを一気に飲み干し、太郎は息を吹き返した。
「そのボトル、もらうよ」
真衣が受け取ろうと伸ばしてきた手と太郎の手が重なった。「あっ」と過剰に反応したら、左手に握っているソフトクリームのコーンの上にニョキニョキと復活していたクリームが落ちそうになり、真衣がとっさにくわえた。そのときの勢いでペットボトルは落下し、ビキニで露わな真衣の胸元にクリームがつつつと垂れた。それを見て太郎が
「ごめん」
と謝ると、
「……舐めて」
と、真衣が相当な決意を秘めた瞳を輝かせて囁いた。太郎の中に熱いものが込み上げた。コーンもビールも放り投げ、真衣を引き寄せ、胸元のクリームをきれいに舐め終わった舌をそのまま首筋に這わせた。ときおりざりっと舌の上に砂が転がったが、そんなことお構いなしだった。真衣の息づかいが変わったのを感じた。耳元で
「好きだよ」
と囁くと、真衣も
「私も」
と応え、唇を重ねた。2人してその場に寝転んだ瞬間、全ての屋根は消え、波打ち際の柔らかな砂の上にいた。これは俺の願望の具現化なのかな……それとも真衣の? もしくはお互いの……? いずれにしても、2人が激しく求め合っている事実には変わりなかった。もう止まることはできない。そんな必要はない。着ているものを全て脱ぎ、生まれたままの姿で愛し合った。
目を覚ますと、日干しレンガの家の中のベッドの上で、寝ている真衣を後ろから抱きしめていた。まだ2人とも裸だった。太郎が起きたことに気がついた真衣はくるりと回転し、太郎の方へ向き直った。
「私、初めての人は太郎くんがいいとずっと思ってたから、嬉しい」
「俺もだよ」
長いキスを交わして、また抱き合った。互いに果てて、真衣に覆いかぶさった直後にはっと太郎は顔を上げて、
「ビール届けるんだった!」
と飛び起き、あたふたと水着をはいて、出入口付近の床に置かれたビールの袋を手に持つと、ベッドの上で上半身を起こした真衣の方へ戻り、
「また来るよ」
と言って口づけし、はにかんだ笑顔に見送られて部屋を出た。
これまでに味わったことのない幸福感のおかげで足取りは軽く、遠いと思っていた家族のもとへ、ものの3分で到着した。皆は松の生えた丘にある日干しレンガの屋根の上にいた。
「遅かったわね」
生まれて初めて見た母のビキニ姿に目を奪われ、量感の増した胸には度肝を抜かれた。これがママの願望か……貧乳だってこと、そんなに気にしてたのかよ……今しがた真衣の体に吸いついてきた太郎は、母の体の変化をどのように受け取って良いのか分からず、気まずさでそれ以上直視できなかった。横を向いて俯むきがちにビールを1本手渡した。
「ちょっと太郎、何かあった? 妙にすっきりした顔してるけど」
「そ、そうかな……」
好奇の眼差しを注ぐ母から逃れ、隣のビーチチェアで仰向けになっている父にもう1本を渡した。
「おう、サンキュー」
普段の父は色白で日焼けのできない体質で、夏になると日焼け止めクリームを露出している部分に塗りたくり、白塗りのお化けのようになるのだが、今日は砂の魔力のおかげで素肌をさらし、思う存分日光浴を楽しんでいる。
少し離れたビーチパラソルの下では、弟の次郎が水着姿でパソコンを開いてカタカタとキーボードをいじっている。こんなところにまで来てゲームかよ……いつもと変わんねえじゃん……おじさんが言ってたように、こいつら本当に何も認識してないんじゃないのか……?
「俺、またちょっと行ってくる」
「夕方までには戻っていらっしゃいね」
「分かった」
太郎は真衣のところへ戻ろうと走り出した。一刻も早く会いたかった。道すがら、真衣がいなかったらどうしようという一抹の不安がもたげた。全ては砂の見せる幻だったら……? さっきの出来事が俺の記憶の中にしか残らないとしたら……? いや、夢かうつつかなんてどっちでもいい。いなかったら真衣の本当の家まで会いに行って告白するまでだ。「後悔しないように生きろ」とおじさんは言った。俺は俺の思いのままに行動する。小さくまとまっている必要なんてないんだ……ありがとう、恵一おじさん。おじさんのおかげで、俺は変われたような気がするよ。大丈夫、おじさんはまだ死なないよ。……あ、さっきおじさんと会えたのは、おじさんの願望? 俺を呼び寄せたのか? それとも、俺が会いたかったから出てきてくれたのか? どちらにしろ、お互いに思い合っていたという事実は変わらないんだ。真衣ともそうであって欲しい……待っててくれ、今すぐ会いに行くから。
(了)
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