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【短編小説】お別れ勉強会

 裕斗ゆうとは下町を流れる川沿いのベンチにコーヒー片手に腰かけていた。会社帰りに、ある勉強会に参加しようと事前に申し込んでいたのだが、いざ近くまで来ると、本当に行くべきだろうか、どうしよう……と、なかなか決心がつかないのだった。
 「はぁ……」とため息をつきながら周りに目を向けると、赤い夕日と街灯まじりの光に照らされた5メートルほど離れた隣のベンチに、自分と同い年くらいの男が同じように缶飲料を持って座っている。裕斗の視線に気がついた男は、しばし裕斗を見つめたあとに軽く会釈した。急に恥ずかしくなった裕斗は急いで立ち上がり、目的のビル目指して足早に移動を開始した。理由は何であれ、結局行くことになってしまった……。
 土手に並ぶ雑居ビルの3階の一室が、裕斗が申し込んだ勉強会の会場である。入り口には『お別れ勉強会』と大きく書いた紙が貼ってあり、その文字の下には主催者である葬儀屋のロゴが印刷されている。
 ドアを開けると、受け付けの中年女性が笑顔で声をかけてきた。

「どうぞ、こちら本日の資料です。お好きな席にお座りくださいね」

 裕斗は資料を受け取り部屋を見回すと、小学校の教室2つ分ほどの部屋に長テーブルが何列も並べられ、すでに20人くらいが座っていたが、そのほとんどはすでに定年を迎えたであろう年配の男女である。裕斗は前から5列目の窓際の席を選んだ。
 資料に軽く目を通していると、入り口のドアが開き、先ほどベンチで隣り合った男が入ってきたので、裕斗はドキリとした。資料を受け取った男も裕斗のことに気がついて、あっと軽く驚いてから頭を下げた。もう逃げられないと思った裕斗も、一瞬で赤面したのを恥じながら同じように挨拶した。男は裕斗よりひとつ前の列の入り口側に席を取った。
 その男が入ってきたのを最後に、教室の1番前で資料に書き込みをしていた人当たりの良さそうなメガネ姿の初老の男性講師がマイクを持って立ち上がった。

「皆さま、本日はわたくしどもの勉強会にご参加くださりありがとうございます。ここには自らの命を自らの手で終わらせたい方と、大切な人を見送りたい方、分け隔てなく集まっていただいております。というのも、わたくしどものように普段から死に接していますと、見送る方、見送られる方、どちらも人生の幕引きにおいて持っていただきたい心得にそう大差はないのではないかと感じているからでございます。
 そのような考えの根底にありますのは、誰もが経験する死というものを、まるで臭いものにフタをするかのように忌み嫌い、死ぬことは悪いことだとでもいうような風潮への疑問です。
 いくつか例を挙げますと、弘法大師空海は即身仏、いわゆるミイラですね、となって今でも高野山にある金剛峯寺で衆生済度の祈りを捧げ続けていると言われていますが、現代において即身仏になろうとしたらどうなるか? まずですね、即身仏になることを知っていて、土に入るまでにお世話した周りの人間が、自殺のお手伝いをしたということで刑法202条に引っかかって、6か月から7年以下の懲役または禁固刑になってしまうんですね。それから、ミイラになって土から掘り起こしますでしょう。そうすると墳墓発掘罪というのに引っかかって2年以下の懲役が科せられてしまいます。その他にも、死体損壊罪、死体遺棄罪なんかも科せられる可能性がありますね。即身仏になるというのは、もうよほどの覚悟がないとできない。まず脂肪を落とすために穀物を食べずに、木食もくじきといって木の実や皮や芽や根ですとか、草なんかを食して徐々に体重を落としていくわけですね。いよいよ土の中に入る何日か前には、下剤代わりにヒ素を飲んだり、防腐の効果を狙って漆なんかを飲んだりしてね、それはもう想像を絶する強靭な意志がないとできないわけです。そのような方法で自分の肉体に後始末をつけることさえ現代では許されていない。
 まあ今のは極端な例ですけれども、もうひとつ挙げますとね、例えば震災があってもうこの家は危ないから別の場所へ越さないといけない。でも苦労してこの家を建てたおじいちゃんとおばあちゃんはここで死にたいと言う。もう寿命も長くない。でも意志はしっかり持っていて、ここから動く気はない。このような場合、もうこのままこの2人の思うようにさせてもいいのではないかと思ってしまうわけですね。意志を尊重してあげようと。でも、ここで助けなかったら周りから非難されるわけです。なぜ生きている人間を見殺しにするのかと。なぜそんなふうに冷酷になれるのかと。みなさんならどう思うでしょうか?
 このように、死に関しては本人の意志に関係なく、"生き永らえさせることが正義"ということがまかり通っているわけですね。死に直面することを先延ばし、先延ばしにしようとする。病気でおじいちゃんが入院しましたと。もう治らないと分かっているのに、やれ検査だ透析だ手術だと、すでに弱っている体にさらに負担をかけるんですね。お医者さんの方では、我々は手を尽くしているんですと、家族に対してポーズを取るわけです。家族にしても、自分のせいでおじいちゃんが死ぬのは嫌だ、おじいちゃんの兄弟たちにも面目が立たないと病院に入れるわけです。おじいちゃん本人も、俺が死ぬわけない、手術をすれば助かるんだと信じて医者に任せきりです。死を前にして皆で死をたらい回しにしているのです。
 なぜこのようなことが起こるかといいますと、やはり死は怖いものだ、なるべくなら避けて通りたいと思っている人が多いからではないでしょうか。死の先に何があるか分からず、死んだら全てがおしまいだと思ってしまうわけです。信心深い人は、死は神の御許へ近づくプロセスのひとつと考えるわけです。しかし今の日本で神だ何だと言うと、あの人は宗教にはまっているなどと陰口を叩かれるわけです。
 しかし宗教を嫌うのも時代の流れによるところが大きいので、致し方ないとも言えます。戦争で負けました、地獄を味わいました、東アジアや東南アジアの国々には地獄を味わわせてしまいました。なんだ、神なんていないじゃないかと。神は死んだのだと。空っぽになったところに資本主義や拝金主義がどどっと押し寄せた。頑張れば頑張るだけ物質的に豊かになれる。金があれば何でもできる。金をもってるやつが偉い。お金がその人の価値を測る基準になってしまっているわけです。金がなくなれば全ておしまい、死んだら何もかも終わりだから、お金で買える目先の快楽だけを追うようになってしまった。人生は1度きりと開き直ってしまえば、毎日が無礼講なわけです。
 しかしどんな生き物にも死は訪れます。医学の発展により、この当たり前のことが薄らいできていますね。肉体は終わるということを受け入れて生きていれば、いざ自分が死ぬ、大切な人が死ぬとなったときに、苦しみを減らすことができるのではないかと思うのです。わたくしどもは、こういった"死を受け入れる土壌"を取り戻す介添えができればと願い、このような勉強会を開催しているのでございます。前置きが長くなりましたが、小休止を入れてから本題に移りたいと思います」

 今ので前置きかぁ……裕斗はすでに頭の中がいっぱいいっぱいになって、深呼吸をしながら天井を見上げた。ベンチの男にちらと目をやると、良い姿勢で資料に目を落としている。なんだか格好いいし、僕と違って仕事ができそうな人だなあ。

「では本題に入らせていただきます。死は自分ではなかなか選べないものです。突然に襲ってくることもある。病気で思うようにならず苦しみの中で亡くなることもある。自死の原因で群を抜いているのが健康問題ということを考えると、やはり病は苦悩の種だということが分かります。
 この世とのお別れの形はさまざまですが、少なくともここにお集まりいただいてる方たちは、自死であれ大切な人を見送ろうとする立場であれ、死を受け入れる準備をしようとしている。きちんと死と向き合おうとしている。そうですね? その姿勢のあるなしでは、実際にことが起こったときの対応に天と地ほどの差があります。
 まず事務的な話をしますと、まずご家族が亡くなりましたと。悲しみに浸っているひまもなく、死亡届を出したり火葬の許可申請をしなければならない。年金や保険関係の停止手続きもある。遺書が残されている場合は検認といって、家庭裁判所で内容を確認してもらわないといけない。公正証書遺言は別ですがね。これは公証役場で公証人という法律のプロに作ってもらう遺言です。公証役場は全国に約300か所ありますから、財産が多くて遺産相続で揉めそうなことが分かっている場合は是非出向いてみてください。しかし机の引き出しに入っていた自筆のものとか、親族に宛てて書かれていた場合などには、この検認作業が必要となるわけです。これをしないと預金の解約や不動産の名義変更ですとか、遺産相続の手続きに入れない。相続で揉めたら、場合によっては審判や裁判になり弁護士を頼むことになるかもしれない。
 以前の勉強会に参加した方で、独り身の遠縁が亡くなって突然相続人の候補になってしまった方がいました。故人と関わっていたという証拠を提出しなければならないというんで、メールのやりとりを1枚1枚紙に印刷しなければならなかったと、大変な思いをされた方がいらっしゃいました。
 賃貸物件で独身の方が亡くなった場合、自然死でも何日か経っていたら遺族宛てに高額なリフォームの請求が届くとか、自死の場合なんかは、借り手がつかなくなった穴埋めに損害賠償を請求されるなどといったことも聞きます。
 自らの手で人生を終わらせようと考えている方は、これら全てを考慮した上で、遺された家族が大変な思いをしないように、この世から去る準備をする必要があります。ちょうど即身仏になろうとするお坊さんが木食で体重を減らしてゆくように、時間をかけて身辺を整理してゆくのです。冷蔵庫に入れたままの瓶詰めのしゃけフレークが半分残っているとか、使いかけのシャンプーやリンス、鉛筆けずり器にけずりかすが残っているままだったらどうなるか。本にしおりが挟まれたままになっていたり、書き込みが残されていたりすることを、片付ける立場になって考えてみてください。処分にあたる人間は、故人の生きていた気配を感じてしまい、悲しみが増し大変な苦痛となるわけです。
 この、相手の立場に立ったらどうだろうかと考えることがいつでも非常に大事なんですね。いわば想像力です。本日、わたくしは最初に"見送る方、見送られる方、どちらも人生の幕引きにおいて持っていただきたい心得にそう大差はない"と申しましたけれども、想像力によって互いの立場を行き来できると、何事もスムーズに進められます。自死する場合に限らず、日常のささいなことでも、普段からイメージトレーニングをすることが大切です。
 例えば、屋外をついの場にと考えいる方、靴を脱いでそのそばに遺書を残す場合、風で飛ばないようにと靴を重し代わりにするのはせっかく書いた遺書に失礼でもありますが、取り乱していたと思われるだろうなと、自分がいなくなった後のことを想像するわけです。ですからこの場合は、せめて少し重めの石か何かを、アスファルトがほころんで転がっている小さいものではなくて、手のひらに収まるくらいの河原の石ですとか、少し良い家に敷いてある庭石程度のものを準備しておくのがよろしいだろうと思います。
 今の若い人たちですと、今日もちらほらいらっしゃっていますが、SNSなんかにアカウントが残ったままになっていると、ああ、自分の痕跡を残しておきたかったんだなとか、生きることに未練があったのかななどと思われるだろうと想像できますね。そうすると後味が悪いですから、削除しておくことをおすすめします」

 「若い人」と言って、講師は裕斗とベンチの男を交互に見て話をした。この話題が終わると、裕斗と男の視線が一瞬ばちっと合って、裕斗は電撃に打たれたように固まってしまった。

 勉強会が終わり、個人的な質問がある参加者たちは講師の前に列を作り始めた。裕斗が帰り支度を整えて教室を見回してみると、ベンチの男はすでに姿を消していた。
 ビルを出ると、足が自然と先ほどの川沿いのベンチに向かっていた。裕斗が座っていたところには先客がいた。姿を認識できる距離まで近づくと、勉強会の前にここで会った男だということが分かった。胸が高鳴った。極度に人見知りの裕斗が自分から誰かと関わろうとすることは滅多になかったが、このときばかりは、何かあらがえない力が追い風のように作用しているのを感じた。相手の男も近づいてくる裕斗のことに気がついた。2人とも視線を逸らすことはなく、裕斗は1人分の間隔を空けて男と同じベンチに座った。

「お疲れさまです」

 男が声をかけた。

「お疲れさまです……ってなんだか仕事みたいですね」


 裕斗と男は笑い合った。裕斗は続けた。

「僕、仕事も恋愛も何もかも上手くいかなくて、死んだら楽なのかな〜と漠然と考えていたんですけど、さっきの話を聞いたら、死ぬのも大変だなって思ったんです。死にたいなんて考えてたのがばかばかしくなっちゃって……」

「そうですね……死ぬって、自分ではどうすることもできないからこそ、許されてる部分も多いのかもしれないですね。でも、自ら幕引きとなると話が違ってくるってことが分かりました」

 男は沈痛な面持ちでつぶやいたあと、笑みを浮かべて裕斗に目をやった。裕斗の鼓動がスピードアップした。

「僕もあなたと似たようなものです。同性ばかり好きになって、ことごとく上手くいかなくて、親には冷たい目で見られるし、居場所がないんです」

 裕斗の目がきらりと輝いた。

「ぼ、僕も恋愛の対象が男なんです……」

 尻すぼみになってしまったが、自分からこんなことを口に出すのは初めてだったので、裕斗はその勇気に驚いた。男の顔にも喜びが兆し、

「今日は生きていくのが楽しくなりそうなきっかけを見つけられた気がします……もしもあなたがまたここに来てくれたら、絶対に声をかけようと決めてたんです」

 裕斗も続けて、

「僕も、会えたらいいなと思ってたら、自然と足がここに向いていました」

「両思いですね」

という男の言葉に2人して照れ合った。

「良かったら友達になりませんか? 僕は要貴大かなめたかひろと言います」

 男は右手を出して、握手を求めてきた。

「ぼ、僕は磯崎裕斗です。よろしくお願いします」

 前のめりで返して、2人は手を握り合った。

(了)


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