【ショートショート】ひょひょいのひょうい

「太郎くん、涙が……」

 吉男が太郎の顔を見て、びっくりして心配そうに言った。

 ──あれ? 僕、あの人を見ていると、なんだか懐かしいような悲しいような……なぜだろう、どこかで会ったことがある気がする……

「あっちの人も泣いているね」

 吉男が太郎の視線の先にいる初老の紳士を指差して、太郎の耳元で囁いた。

 ──やっぱり、あの人も何か感じるんだ……たまたま中学の修学旅行で来ただけだけど、きっと僕にはここに来る理由があったに違いない。

「吉男くん、僕、きっと前世であの人に会ってるんだ」

「前世?」

「うん、遠い昔、この戦場の跡で、ともに命を失った義兄弟か何かだったんじゃないだろうか」

「そ、そんなことあるのかな?」

 吉男が怪訝な顔つきで太郎を見やると、

「おめえさん、そりゃ、憑依ってもんよ」

と、太郎と吉男の後ろから薄汚い格好をした中年の男が声をかけてきた。浅黒い皮膚に目だけがぎらぎら光っている。

「ひょうい?」

 太郎と吉男は声を合わせて聞き返した。

「そうだ。こういう場所でうろうろしてる浮かばれねえ霊が、魂を入れる心の壁が薄い憑依体質のやからの中に、ここぞとばかりにスコーンと入ってくんのよ」

「僕は心の壁が薄いんですか?」

「ああ、そうだろうな。その様子じゃあ、今までもこういうことがあっただろう?」

「あ、はい……小学6年生の遠足のとき、道に迷っていたら、声をかけてくれたおじさんと何か通じ合って……」

「だろうな。んじゃあ、いっちょやってみっか。ひょひょいのひょうい!」

 男が太郎の目の前で右手の人差し指をぐるぐる回し、最後におでこをつんと押した。

「ん? 拙者は何をしておるのだ」

 太郎が辺りを見回して侍のようにしゃべった。

「た、太郎くんが、お侍さん……?」

「野武士の横行を止めねばならぬのだが……奴らはいづこへ消えたのだ?」

 吉男はあわわと怯えて声が出ない。観光地となっている戦場跡を、太郎は走り回っている。

「お、おじさん、お願いだから太郎くんを元に戻して!」

「分かった、分かった」

 こちらへ戻ってきた太郎に、男は再び、

「ひょひょいのひょうい!」

と言って、先ほどと同じ仕草をした。

「夫はどこですか!?」

 太郎はヒステリックに声を裏返した。

「いやー! もうー! またあの女のところに行ってるのなら、殺してやるー!」

 太郎は頭を振り乱して、吉男と男の回りをぐるぐる回った。

「お、おじさん、早く止めてあげてよ!」

「ははは! この子は感度がいいねえ」

 吉男の懇願に男は笑いながら太郎に近づいて、おでこをつんと指で押すと、

「……あれ? 僕は何をしていたんだろう?」

と、辺りを見回しているのはいつもの太郎だ。

「はあ、太郎くん、よかった……」

 吉男はへなへなとその場に座り込んだ。

「吉男くん、大丈夫?」

 太郎は心配そうに吉男の隣に座り、顔色を伺った。吉男は太郎を見つめた。ん? と何も分かっちゃいない太郎の無垢な笑顔を見て、

「太郎くん、あそこにいるおじいさんを見て、何か感じる?」

 吉男が先ほどの紳士を指で示すと、

「え? 別に何も……」

と答える太郎は、本当に何も覚えていないらしかった。吉男は小汚い男にキリリとした顔を向けて言った。

「おじさん、太郎くんを治してあげください!」

 男はククッと笑った。

「おめえさん、これは他人がどうにかできる問題じゃねえのよ。自分で自覚するところから始まって、治したいっちゅう気持ちを持たなきゃならねえ。んでもって、霊に憑依されねえように、心身を鍛えなきゃならねえんだ」

 男が説明している最中、太郎がほほ笑んで男に近寄ってきて、男の胸に抱きついた。

「あんたのそのしゃべり方、久々に聞いたわ。また会えて嬉しいわ」

「お、おめえは、もしやお松かい……?」

「ふふ、そうよ。何年ぶりかねえ……またあんたに会えるなんて、あたしゃ、なんて幸せ者だろう」

「お松……!」

 男は太郎を抱きしめた。

 ──太郎くんが男と抱き合ってる!

 まあ、太郎くんはかわいいからさ。吉男は胸の奥深くに、メラっと燃える嫉妬心が芽生えたのを感じた。
 男は太郎の首筋をくんくん嗅ぐと、太郎はビクッとなって、男を突き飛ばした。

「あんた、またあたしの長襦袢持ってったろう?」

「ん……? おめえはお両かい?」

「そうだよ、もう、匂いを嗅ぐ癖をお直しよ。全く困ったもんだねえ」

「いつもおめえさんをそばに感じたいんだから、しょうがねえだろう」

「ほんっと、あんたはあたしのことが好きなんだねえ」

「俺ぁ、おめえに惚れ込んでるんだよ」

 男は太郎の前に膝をつき、太郎の腹に顔を押しつけて強く抱いた。

「全く、こんなあんたを可愛いと思っちまうあたしもあたしよねえ」

 お両は男の髪を優しく撫でた。

「早くお松さんのところへお帰り。遅くなるとまた怒られるんだからね」

 男がいやだいやだと左右に首を振って顔を擦りつけると、太郎は再びビクッと体を震わせ、男の腕を振りほどいてしゃがんだ。

「ちょっと源さん、あんたまたお両さんのところに行ってたのかい?」

「お、おめえはおすずかい?」

「そうだよ、他に誰がいるってんだい」

「おお、お鈴、俺ぁ、おめえにどんなに会いたかったことか……」

 男は太郎の背中に回って抱きしめた。太郎の胸に手が伸びると、

「太郎くんに触るなー!」

と叫んで、吉男が勢いをつけて男に体当たりした。男は転がり、吉男は太郎の前に立ちふさがって、男から守ろうとする。

「あんたも憑依されてたんだな? 江戸時代から来た好色猿め!」

 吉男は男を罵倒した。男が痛がって起き上がれないと見ると、太郎の方に振り返り、太郎の両肩を振って意識を取り戻そうと試る。

「太郎くん、大丈夫かい? 僕だよ、吉男だよ」

 吉男の呼びかけに、焦点の定まらなかった太郎の目には再び光が射してきた。

「吉男……くん? 僕、一体どうしちゃったんだろう?」

「ああ、良かった……ここは離れた方がいい。早く行こう」

 吉男は太郎を連れて、急いでその場を離れた。
 修学旅行が終わるまで、吉男は太郎のことが心配で、常に付き添っていた。幸い同じ部屋なので、目が行き届く。
 帰りのバスに太郎と隣り合わせになって乗ると、あの薄汚い男が木陰からこちらを見ている。バスが進むと、男も猛スピードで追いかけてきた。

「あいつめ!」

 吉男はカーテンを閉めた。
 東京に着いても気が気でなく、太郎を家まで送り届け、何か変なことがあったら自分に言うようにと太郎に言い置き、周囲を警戒しながら家路に着いた。
 登校も一緒にするようにし、帰りも可能な限り付き添った。

「吉男くんがいると、何だか安心だよ」

 太郎の言葉に相好を崩す。あの男が建物の陰から様子を伺っていることも露知らず……。
 男は吉男の監視がないときに、太郎のところへそそくさと出向いては、代わる代わる現れる妻や妾たちに振り回されて、ひとり悦に浸っているとかいないとか。

(了)

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