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トキシック・スチューデントと内申点

定期的に挙がる能力主義論

かつて不登校小学生Youtuberとして話題になった子供、「ゆたぼん」が高校受験に失敗したという。さもありなんといった所だが、その後に不合格の理由が内申点不足によるものであったという申告から、高校受験における内申点不要論が持ち上がった。

このテーマは学歴不要論と合わせて、たまに現れる早熟な、あるいは叩き上げの成功者らにより、日本の学習システムの旧態依然とした箇所を批判するものとして、定期的に挙がる。

なので、今回はここからか…といった印象だ。

優秀さと有毒性は共存する。

優秀であっても、有毒な学生というものがいる。
特に中学レベルまでは、勉強しなくても器用に点数を取る学生など珍しくない。授業中に喋り、眠り、周囲に迷惑をかけ、しかし付け焼き刃などで器用にそれなりの点数を取って、真面目なだけの学生をバカにするタイプである。その学生は確かに地頭は良いのだろうが、真摯に授業へ向き合う周囲の多くの学生にとって悪影響をもたらすことも多い。
私の学生経験でも、塾講師経験でも、そういう学生が必ずいた。

似たような例は社会においても珍しくない。
独善的で、高圧的な人間のリーダーシップを発揮する社員が代表的なもので、その人物自体は他の労働者よりも優秀なので、会社もなかなか処分できず、しかし全体の効率を下げてしまう、そういう類の話だ。
社会ではこういった、一見優秀だが有毒な社員のことをトキシック・ワーカーと呼ぶ。ここで、優秀なトキシック・ワーカーの生み出す利益よりも、集団に与える損失の方が大きいことは踏まえておきたい。

優秀な(あるいは試験の点数が取れる)「だけ」で有毒な学生は、トキシック・スチューデントと言えるだろう。
かの少年が仮に、勉強面で優秀であったと仮定するとしても、学校とクラスメイトを見下し、Youtubeを介して不登校を広く推奨した過去は、教育者側からすれば有毒と言える。
かような事例を内申点という指標により避けることが叶うならば、公立学校の教師の負担が減る。

「ゆたぼん」自身が悪いわけではない。


ただし今回の件、その少年自身は分別のつかぬ小学生時代から、親に見せ物として利用された被害者である。実際、成長するにつれ自身の環境の異常性を察し、生活を改め、勉強の重要性を認識し、高校受験をしている。それは立派なことである。
しかし、被害者だから無毒というわけではない。

有毒学生にとっては、自分一人の、ささやかに思える身勝手も、担当する教育者には大きな負担となり、そのリスクの表出はクラス全員に悪影響を与える。同級生の親からしてもたまったものではない。親にも問題があると明らかな子供となれば尚更、教師や学校がそういった人間を避けたいのは本音だろう。

真面目さや、従順なことも大切な才能である。

内申点による評価が旧態依然として見えるのも、それによってある種の理不尽が発生するのも理解できる。長所を伸ばし、多様性に重きをおく現代に、この既存システムを全肯定しようとは、私も思わない。

しかし、能力が大切な場面もあれば、ルールに従順であることが大切な場面もある。若いうちは長いものに巻かれて下積みをし、そこから成り上がる人生だって珍しくない。機械的、画一的、従順であること自体は悪でないし、能力をうまく発揮できない者や、大器晩成型の人材にとって、内申点とは学生生活において立派な武器であり、真面目さは大切な才能なのだ。

限定的に指標を取り上げて、能力差別主義に陥ってはならない。
それが例え気持ちの良いものだとしても。

「この学校には相応しくないから」の一言で、教育者が入学者を選り好みできるならば痛快であろうが、現代社会はそれをこそ許さない。
トキシック・スチューデントを排除し、真面目さが武器の学生を拾い上げる時、内申点制度の代わりになる、多数を納得させるシステムが、今の日本に無いということだろう。それに不満がある者にとって、私立なり、大倹なり、他の方法が十分に用意されている点を考慮すれば、現状において、それがベターと納得すべきではないか。

「高校受験は人生の半分を決める」とは恩師の言。

高校受験は人生において非常に大切な事柄で、その準備をする中学生活も軽視してはならない。そして高校生活は、人生のもう半分を左右する。
そのように大切な期間ながら、当の学生はまだ若く、分別も甘い。故に高校生活とはリスキーな時期でもある。有毒な事柄は徹底的に遠ざけたいというのは、教育者や親からすれば当たり前の思いだろう。

礼儀がない、学問を見下す、教師に逆らう、授業を妨害する、この辺りはまだ可愛いもので(だからと言って、してはいけない)、麻薬を広める、売春を勧める、いじめで同級生を殺す、見栄の張り合いと物欲に耽溺しそれを肯定するような、猛毒極まる学生だっている。

これらの解毒は、高校とそこに従事する教師達の、本来の仕事ではない。

2022年度、読売新聞より引用

内心制度が古く見えようが、試験の点数がやや足りなかろうが、無毒な学生の方が、同級生にも、教師にも、保護者たちにもずっと良い。

朽ちやすい資産を、朽ちにくいものへ。

若者、特に学生は皆、普遍的かつ便利な資産を多く持つ。
それは若さであり、体力であり、容姿であり、瑞々しい感性、物覚えの良さ、そして庇護される立場などだ。
しかしこれらは時間と共に急速に劣化するし、期限付きのものすらある。
なればこそ学生時代とは、これらの朽ちやすい資産を、知識や技術、経験や実績などの、朽ちにくい資産へと変える為の期間と考えることもできる。

そう考えれば、「ゆたぼん」は自らの資産を、知識や技術ではなく、現金と知名度に変えたと言って良い。高校に入学せずとも、彼が声を掛ければ、名乗り出る家庭教師だっているだろう。そうして現金と知名度を知識に変換し、大検を受けて大学に行くのも選択肢の一つだ。勿論、何もせずにそれらの資産をそのまま朽ちさせるのも、彼の自由だ。

学問の機会は学校だけではない。かの少年はまさに今、かつて自ら主張したそれを真に体現する機会を得たのかもしれない。


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