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聖書と信

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聖書はひとを生かすもの、という思いこみだけで、お薦めします。信仰というと引かれそうですが、信頼などの信として、ひとや世界を大切にする思いが、少しでも重なったらステキだな、と思いつ…
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#正義

思い込みは誰にでもある

思い込みは誰にでもある

長男が小学生のときのことだった。作文を書いた。今度はたこ焼きの話ではない。教会学校でクリスマスの話を聞いたことだった。マリアの懐妊に先立って、親類のエリサベトが洗礼者ヨハネを授かる。
 
若い女の先生だったが、「エリサベト」のところを、朱で「エリザベス」と直していた。いや、彼は「エリサベツ」と、その時の聖書に従って書いていたような気もする。
 
先生は知らないんだね、と私は息子に説明し、そのことに

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3月20日

3月20日

同じ日付だからと言って、思い出さねばならない決まりはないし、「同じ」という感覚も極めて人為的なものでしかないのだが、カレンダーが巡ってくるたびに、その同じ日付の出来事を思い返すのは、仕方がない性なのかもしれない。
 
福岡で大きな揺れを体験した、あの地震。そして、地下鉄サリン事件。
 
前者は、2005年のこの日付の日に起きた。日曜日だった。しかも朝の礼拝の時間だった。ちょうど、「こども説教」とい

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他者と自己

他者と自己

対面セールスで「お母さん」と若手社員がご婦人を呼ぶ。「私はあんたを産んだ覚えはありません」とぴしゃり。こうしたお笑いネタは、実はごく日常的であるとも言える。
 
ある人は、子どもを前にしては母親であり、自分の母親を前にしては娘と呼ばれる。生徒を前にしては先生であり、姉がいれば妹となる。会社で部下がいれば上司であるだろうし、売る店の中に来れば客となろう。
 
人は、本当に自分一人であったとしたら、自

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言うべきこと

言うべきこと

確か、小学六年生の時だったのではなかったか。交通安全の作文を書いたら、県で入選してしまった。公欠扱いで車に乗せられて、警察署に行って表彰されたことがあった。小学生に似つかわしくない、ルーズリーフファイルの、けっこうビジネスライクなものをもらったと思う。それと、テプラか何か。こういうのに現金関係は出ないことになっている。
 
その作文が、警察関係か何か、公的な新聞(広報紙)で公表された。交通遺児とな

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聖書と生きる礼拝

聖書と生きる礼拝

聖書を読んでいる、というだけで、人間が善くなるわけでもない。だのに、勘違いをするのが人間というものだろうか。そうした人間の醜さやつまらなさの故に、聖書そのものが貶められるということもありうる。しかし、それもまた違う。
 
聖書自体、人間たちが集い、これは聖書だ、これは聖書ではない、と決めたものであることは間違いない。外典になったから、神の言葉ではなく、正典だから神の言葉である、と峻別してよいのかど

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『シャローム・ジャスティス』(ペリー・B・ヨーダー:河野克也・上村泰子共訳:いのちのことば社)

『シャローム・ジャスティス』(ペリー・B・ヨーダー:河野克也・上村泰子共訳:いのちのことば社)

題が内容のすべてを表すようなものである。「シャローム」というのは旧約聖書の原語であると言ってよいヘブライ語で「平和・平安」、「ジャスティス」は英語の「正義」というところだろう。これらが一体化するものであるというのが、本書が一貫して主張するところである。それが、理論的概念的に展開するというのではなく、副題にある「聖書の救いと平和」とあるように、聖書の理解という意味で説かれるのが特徴であると言えるし、

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「正義の天秤」

「正義の天秤」

NHKで地味なドラマが始まって、放送終了した。最初から私は注目していて、楽しみにしていた。キリスト教会が重要な舞台になっていると聞いたからだ。
 
原作を知る者ではない。原作には、ギリシア神話の「アイギスの盾」も絡んでいるが、登場人物の焦点がひとつの教会に集まる。教会学校に来ていたという人たちが話の中心にいるためで、主人公のスーパーマン的な鷹野和也もそこを心のよりどころとする。牧師は女性で、山口智

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口先と実践のバランスの狭間で

口先と実践のバランスの狭間で

「ジャイアンってひどいよな。のび太をいじめてる。」「そうだな。」
 
言っていることは間違いないとする。しかし、決してジャイアンのそばに近づかないままにこれを言うとなると、「俺は正しいことを言っている」という自負だけが残り、のび太は何の変化もない。のび太を助けよ、と密かに口にしたところで、のび太の情況は何も改善されない。正義の声がいつかジャイアンに響いて、ジャイアンが改心するのを期待しているという

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赦さなかったからなのか (2)

赦さなかったからなのか (2)

聖書を、教義として信じるという考え方がある。当たり前だと言われそうだ。宗教なのだから教義を信じないでどうする。確かにそう言われても仕方がない。だが私は必ずしもそうは思わない。聖書によると、○○は××すべきである、そういう命題を掲げて信条としてよいものなのかどうか、疑問がある。
 
3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
3:29 しかし、聖霊を冒涜する

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