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聖書はひとを生かすもの、という思いこみだけで、お薦めします。信仰というと引かれそうですが、信頼などの信として、ひとや世界を大切にする思いが、少しでも重なったらステキだな、と思いつ…
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2021年2月の記事一覧
神はあなたをひとりにしない
二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(マタイ10:29)
幾人かの学者が指摘していると教えてもらったが、ここで「お許し」という語はマタイによる福音書の原文には全く存在していない。日本語に訳すと、「あなたがたの父なしで、地に落ちることはない」というようになるだろうか。
ある学者は、ここを自分なりに解釈した
赦さなかったからなのか (2)
聖書を、教義として信じるという考え方がある。当たり前だと言われそうだ。宗教なのだから教義を信じないでどうする。確かにそう言われても仕方がない。だが私は必ずしもそうは思わない。聖書によると、○○は××すべきである、そういう命題を掲げて信条としてよいものなのかどうか、疑問がある。
3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
3:29 しかし、聖霊を冒涜する
赦さなかったからなのか (1)
仲間を赦さない家来のたとえというのがある。マタイ18章にある。まずペトロがイエスに質問をする。自分に対して罪を犯した仲間に対しては赦さなければならないと教えてもらったが、何度くらい赦せばよいだろうか。七回も赦せばなかなかのものだと思うのですが。
イエスは、赦すのは回数制限をしないと答えた。そして、神の国ではどういうことをすることになるのか、たとえ話で答えた。
王が、家来に金を貸していた。あ