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ショートメッセージ

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聖書から日々黙想をしている中で、短いひとまとまりのメッセージを書き留めています。それをおすそわけします。ご面倒ですが、聖書箇所について聖書を開くか、検索してくださると、いっそう身… もっと読む
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#新約聖書

聖霊を受けるという意味を問う

聖霊を受けるという意味を問う

使徒19:1-7 
 
所はエフェソ。但し「アポロがコリントにいたとき」とわざわざ前置きされています。アポロは、この直前で登場しています。雄弁家でした。イエスについて熱心に語り、人々に、イエスがメシアであると論ずる力をもっていました。疑うユダヤ人たちも、その議論においては、アポロに勝つことができなかった、と記者はその才能を持ち上げています。
 
そのアポロが、先にエフェソで宣教活動をしていたのです

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人からではなく、神から

人からではなく、神から

ガラテヤ1:11-17 
 
パウロは、人間から、人間の福音を受けたのではありませんでした。これだけでも、かなり特殊なことであったことでしょう。人の口が伝えるままに、伝聞の宗教を信じてしまうことが、世間では多いのです。人を信用することは美徳なのかもしれないのですが、殊神の事柄については、大きな誤りとなりかねず、危険が伴います。
 
パウロは、「イエス・キリストの啓示を通して」福音を受けた、と言って

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真実な言葉の裏

真実な言葉の裏

テトス3:1-11 
 
「この言葉は真実です」(8)が強く響きます。この言葉は信じられる、と言い切っています。清々しいものがあります。テトスへの手紙が、信仰者へ、特に伝道者へ向けてのマニュアルのような役割を果たすとすれば、伝道をするべく立てられた専門家はもちろんのこと、信じる者すべてに、このメッセージが刻み込まれていなければなりません。
 
「これらのことを力強く主張するように願っています」とあ

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隠れた差別感

隠れた差別感

エフェソ2:11-22 
 
「無割礼」とイスラエル人が呼ぶとき、そこには侮蔑の意がこめられていたと思います。ダビデが、ペリシテ人のことをそのように呼んだことがあります。今、この書でエフェソの教会の人々に、この言葉が向けられています。軽蔑の意が隠れているのかどうか、分かりません。でも、この箇所には、根深い差別感覚が含まれているような気がします。
 
イスラエルの優越は、神との契約に基づくと思われま

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共に苦闘するパウロ

共に苦闘するパウロ

フィリピ1:27-30 
 
私は今にも殺されるかもしれない。だが、できれば、もうしばらく生きていたい。生きてあなたがたに会いたい。こんなパウロの心の揺れを吐露するような文面が見えます。その後、視点をフィリピ教会の人々へと移します。教会も、また苦しいではないか。敵によって苦しめられているではないか。だが、その苦しみすら、神から与えられているのだ。
 
私たちは他人に対して、このような言い方をすべき

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信じる故の勇気

信じる故の勇気

ヨハネ16:25-33 
 
「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」とイエスが言います。その「時」とはいつのことでしょう。誰の、どんな時なのでしょう。これを読む私たちにとっても、まだその「時」は来ていないのでしょうか。だったら、私たちに神のすべてが明らかになっているはずがない、というのも当たり前でしょうか。
 
ところが、イエスの十字架と復活の時を、ここでは指しているように見

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どこか無邪気な復活劇

どこか無邪気な復活劇

ヨハネ20:19-23 
 
復活したイエスは、ヨハネ伝では、マグダラのマリアにしか、まだ姿を現していませんでした。ペトロともう一人の弟子が空の墓は見て知っていました。この二人はしかし、まだ十分理解していなかった、とヨハネは記しています。こうした弟子たちは皆、ユダヤ人たちの襲撃を恐れていたのか、さる家へ閉じこもっていました。
 
部屋に鍵をかけていたというのは、心にも鍵をかけていた、と言っているの

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イエスは教会と共にいる

イエスは教会と共にいる

マタイ28:16-20 
 
復活したイエスは、墓へ来た女たちに出会います。女たちは、まず空の墓を見ました。天使が現れて、イエスは復活した、と女たちに告げました。先にガリラヤへ行っているから、そこで会えるだろうというのです。女たちは、恐れながらも大喜びだという複雑な感情を胸に、弟子たちのいるところへと走りました。走ったというのです。
 
イエスは、その行く手に立っていて、女たちはイエスに出会います

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伝えたいこと

伝えたいこと

使徒2:14-24 
 
聖霊が降った。その後のことです。これは酔っ払いに違いない、と集まってきた人々が言ったため、それにペトロがすぐさま反応しました。「声を張り上げ、話し始めた」のでした。ペトロ自身「聖霊」に満たされ、「霊が語らせるままに、他国の詞で話しだした」うちの一人であったため、いわばしらふに急に戻ったような情況のように見えます。
 
ヨエル書を引用して、こんなにも落ち着いて理路整然と話せ

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マリアたちの経験が私の経験となる

マリアたちの経験が私の経験となる

マタイ28:1-6 
 
安息日が明けて、二人のマリアが墓を訪ねます。マタイはそう記します。二人は、墓穴の入口が大きな石で蓋されるのを、先に見ていました。マタイでは、翌日に祭司長たちやファリサイさの面々が、ピラトに申し出たことが描かれています。墓を見張っておくべきことを提言し、受け容れられました。何人か知れませんが、複数の番兵が付けられました。
 
二人のマリアが主の天使の現れに遭遇したとき、この

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共に死に共に生きる

共に死に共に生きる

コロサイ3:1-11 
 
「あなたがたはキリストと共に復活させられた」とは聞き捨てならない言葉です。復活はキリストにおいて成立しました。でも私たちはまだなのではないのでしょうか。ここは「共に」が別の語ではなく動詞にくっついており、「共に起きる」が一語となっています。死後の肉体的復活を、必ずしも意味してはいないように見えます。
 
キリストに従って立ち上がったなら、私たちはこのことを体験した、と言

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勝利は約束されている

勝利は約束されている

コリント一15:50-58 
 
動かされることはない。あなたの足元は盤石だ。主の僕として自分が、いまここでどうするとよいかを頭に思いながらも、それを実践することについては、ためらいを覚える必要はないのだよ。パウロが言っていることを現代風にアレンジすると、このようなメッセージとなるのではないでしょうか。それが可能なのは、勝利が与えられているからです。
 
私たちは、救いという方法により、すでにこの

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信仰の段階

信仰の段階

ヨハネ20:1-10 
 
この場面には3人の人物が登場します。マグダラのマリアが、まずイエスの墓へ向かいます。主イエスを愛し慕う気持ちが、会いに行きます。しかし主はいません。墓の蓋の石が取り除けてあることそのものに驚嘆していた、他の福音書とは異なります。そもそも福音書という文学形式は物語ではありませんし、単なる記録書や歴史書でもありません。
 
福音書は、読者の身と心に起こる出来事なのです。マリ

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罪の闇の中での叫び

罪の闇の中での叫び

マルコ15:33-41 
 
イエスが十字架に架けられた時刻は、明確には分かりません。ただ、昼の12時よりは前であったと思われます。12時になり、全地が暗くなりました。そのまま3時にまでなったといいます。ということは、イエスの苦痛が、少なくとも3時間以上続いていたことになります。この重みを、私たちは少しでも考えなければなりません。
 
十字架の形状は不明ですが、自らの体重が内臓を蝕むともいいます。

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