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共に死に共に生きる

コロサイ3:1-11 
 
「あなたがたはキリストと共に復活させられた」とは聞き捨てならない言葉です。復活はキリストにおいて成立しました。でも私たちはまだなのではないのでしょうか。ここは「共に」が別の語ではなく動詞にくっついており、「共に起きる」が一語となっています。死後の肉体的復活を、必ずしも意味してはいないように見えます。
 
キリストに従って立ち上がったなら、私たちはこのことを体験した、と言えるのかもしれません。「ですから」と訳してありますが、「もし」のニュアンスが隠れていると思います。キリスト共に立ち上がったならば、上のものを探せ、というようにも読めます。キリストが上で待っています。地上のものしか見えないようであってはなりません。
 
「あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」ということを、私たちが肉体的に死んだ、というようには必ずしも捉える必要はないでしょう。起き上がり、立ち上がった者の命は、キリストの命を受けています。そのために、一度律法により死んだことが前提となっています。これは魂に於ける死でしょう。
 
打ちのめされ、神の裁きの下に死刑を宣告されたのです。たとえある種の心理的な現象であると説明されようとも、キリストの十字架に共につけられたことを経験した者ならば、分かることです。そうでないと、新約聖書の記者が体験して記したことは、分からないのです。上のものを求めるのだから、という条件の下で、ここからの論が流れてゆきます。
 
貪欲は偶像礼拝として殺してしまおう。以前あなたたちもそうだったではないか。しかしいま、それはもう捨て去っています。古い人は脱ぎ棄てて、新しい人を着なさい。それがキリストです。キリストを来なさい。人は本来、神のかたちに造られたのではなかったでしょうか。本来の姿、神のかたちに戻るのです。
 
キリストという具現が、ここに示されました。その体験をすることが、「真の知識」です。人種の区別もありません。天を見上げる者、キリストと共に死んで共に活かされた者は、いまここで、その心の内にキリストが住んでいます。人格の中心で、キリストが輝いています。キリストが私の中で生きています。キリストと共に死んだからです。

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