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聖霊を受けるという意味を問う

使徒19:1-7 
 
所はエフェソ。但し「アポロがコリントにいたとき」とわざわざ前置きされています。アポロは、この直前で登場しています。雄弁家でした。イエスについて熱心に語り、人々に、イエスがメシアであると論ずる力をもっていました。疑うユダヤ人たちも、その議論においては、アポロに勝つことができなかった、と記者はその才能を持ち上げています。
 
そのアポロが、先にエフェソで宣教活動をしていたのです。けれども、アポロから聖書について教えられ、イエスのことを信じた人々の前に、今度はパウロが現れます。「弟子」だというからには、キリスト者だということですが、その信仰は、聖霊を受けたことによってスタートしたのか、と尋ねると、そんな話は聞いたことがない、と答えました。
 
アポロが授けた洗礼は、洗礼者ヨハネと同じものであったことが分かります。それは悔い改めの洗礼でした。しかしイエスは、その後にそれを超えて来た方です。「後に」はギリシア語で「メタ」ですから、これに「超えて」の意味を読み込むことで、面白い風景が見えてきます。イエスのもたらす聖霊は、上からの、天からのものであると理解するのです。
 
パウロは、本当の信仰に入るためには、イエスの名による洗礼が必要になるのだ、と教えます。悔い改めは、もちろん必要です。これなしでキリスト者の名札をつけ、万一説教などをするようになると、多くの人が不幸になります。パウロが手を置くと聖霊が降った、と記されています。按手という形式でいまも遺っているもののようです。
 
しかし、「イエスの名」によって洗礼が施されることこそ、大切な点なのではないでしょうか。そして結果として、異言や預言がもたらされた、としていますが、そこが問題なのではないと受け止めます。イエスの名による救いがあってこそ、キリスト者としての真のはたらきができるようになることが、そこに表されているのではないでしょうか。
 
これを以て聖霊のはたらきとするのが、聖書が伝えようとしているところなのです。神が直に関わってくださいます。人間の営みからは、この救いはもたらされないということに注目すべきです。イエスの「名」をただ称えればよいのではありません。「名」を受けることで、イエスと出会い、イエスを体験し、命ある交わりの中で生かされるのです。

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