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教会の問題

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キリスト教会はとても居心地のよいところです。でも、満点を期待してはいけないでしょう。たくさんの問題を抱えています。とくに内側にいると見えないものを、なんとか見ようとするひねた者が…
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#命

語る者のことば

語る者のことば

説教塾ブックレット。21世紀になってから、「説教塾紀要」の一部を一般に広く知ってもらうために、というような形で発行されたシリーズがある。その第11弾として、2012年に『まことの説教を求めて』が発行された。副題に「加藤常昭の説教論」と付いており、著者は藤原導夫牧師である。説教塾の一員であり、要でもある。
 
今回は、その書評のようなことをするつもりはない。ただ、そのごく一部から励まされた点を証しし

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教会と命

教会と命

ある方と、この世で最後にお会いしたのは、ホスピスの部屋だった。どこが悪いのか分からないくらい、しっかりしていらっしゃった。だがそのからだの中には、蝕む者が巣くっていた。
 
終始笑顔で接してくださった。確かに、そういう方だった。共に祈るひととき、私の目に涙が途切れることはなかった。
 
しばらく後、ひっそりと、世の命を全うされたことを知った。教会でなく、ホスピスでの葬儀であったと聞いた。
 
その

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説教の違いと救い

説教の違いと救い

この2月に、礼拝のレスポンスとして「要石なるキリスト」のことを綴った。そのときの説教は、「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった」は、ルカによる福音書と、その根拠となる詩編とが引かれていた。そのとき、「隅の親石」に関して私が聴いたことから、次のように記していた。
 
★エルサレムのような中東の町は、城壁で囲んで身を守ることが多いであろう。内外の出入りのためには門が必要であり、厳重に管理されてい

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聖書を説かずして聖書が命となる

聖書を説かずして聖書が命となる

イエス・キリストだったら、何と言うだろうか。どうするだろうか。キリスト者は、しばしばそれを考える。答えが出るわけではない。それはこうだ、と決めつけてしまうことはできない。だが、そうすることが、信仰のひとつの原点であると言えるだろう、とは思う。
 
「十字架につけろ」と叫んだ人々のあの熱狂は、エルサレム入城から一週間と経たなかったときに燃え上がったが、現代の情報過多の中で、人の性がかつての時代と変わ

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命を与えた説教

命を与えた説教

すばらしい説教、というものが、いまはウェブ環境から受けられる。これはたいへんうれしい。ありがたい。命ある礼拝説教で、生きる力を受けることができる。なんという恵みだろうか。
 
ある人が、その説教を聞いた感想を届けてくれた。部分的に、ご紹介してみよう。
 
ずっと、辛い状態が続いている。仕事の上でも、教会環境の上でも、その他具体的に挙げれば枚挙に暇がないほどに、辛いことに包まれている。とくにこの一週

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説教は命を与える

説教は命を与える

教会や宣教について、やたら「困難な時代」というフレーズを持ち出すと、説教になるというのは、思い違いである。その中で「信じていきましょう」「神に委ねて歩きましょう」としか結論が出なかったら、昭和期の教会学校である。もちろん、それが間違っていると言うつもりはない。
 
その間がないのだ。せいぜい、与えられた聖書箇所の説明を加えて、尤もらしい励ましで終わると、説教になるような気がするらしい。取り上げた聖

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祈りと説教

祈りと説教

ほかの人のために祈ることを、「執り成し」という。京都の教会にいたときは、私もずいぶん若かったから、お年寄りの教会での祈りを、しみじみ聞いていた。Nさんというおばあちゃんがいて、もう礼拝にもあまり出てくることができませんでしたから、牧師がそのNさんをよく訪ねていたので、礼拝説教の中でも触れることがあった。
 
祈りの課題を、もはやなかなか覚えていられない。そこで考えたNさんは、紙に書くことにした。こ

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聞くに堪えない

聞くに堪えない

隠退(引退)牧師たる加藤常昭氏へのインタビューが、NHKラジオR2で2週にわたって放送された。私の場合は録音させてもらったが、6月半ばまで、ウェブサイトで聞くことができるので、関心をもたれた方は、直接アクセスできる。加藤氏は哲学を学んだ方でもあり、その話は、明快で、筋が通っている。評価はいろいろあるかもしれないが、今日の日本の教会の説教に多大な影響を与えた人の声を、一度受け止めるとよろしいかと思う

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礼拝説教とは何だろう

礼拝説教とは何だろう

週に20分ほど、スピーチをしなければならない。牧師にとってのお勤めなのだろうか。聖書を看板に掲げるという制約がある。何らかの結論が必要になる。聖書の説明をしなければならないし、その中には、子どもでも分かるという程度ではなく、「ほほう」と思わせるような部分を入れる必要がある。
 
しかし毎週そうしたネタを考えるのは大変だ。そもそも聖書のどこから話すか、決めなければならないが、気の利いた箇所を選ぶのは

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言葉にならない

言葉にならない

詐欺師の語りというのは、話だけ聞いていると、尤もらしく聞こえるものである。後から振り返ればその誤りに気づくこともあるし、書いたものを冷静に読めば、騙されないという場合もあるだろう。歴史の中で、集団催眠にかかったように、国民がひとつの破滅的な空気の中に取り込まれ、その空気をつくっていったということを、私たちは悲しい経験として知っている。だが、知っているからといって、それを免れているというわけではない

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コロナ禍における教会と国家について

コロナ禍における教会と国家について

「まんぼう」などと、どこか見下したような呼び方をし始めると、恐らく何かがおかしくなっていく。「まん延防止等重点措置」のことである。新型コロナウイルスの感染が広がってきた頃にも、「コロ助」などとバカにした言い方をしていたツイートがあったが、まともなことを言ってはおらず、嘘でまかせばかりばらまいていた。デマのばらまきは、その後法的に処罰されるようになっていった。
 
新規感染者数が減少傾向にあったため

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罪と教会

罪と教会

できるなら、書きたくないことがある。だが、エレミヤの如く、燃え上がるものを抑えられない。いや、預言者気取りをしようと思っているのではないのだが。
 
我が社は上場なんとか、業績上昇中、社員を大切にすることはもちろん、休暇は年になんとか日……それはもう、理想的な会社であるような宣伝文句。そしてそこに入ればブラック企業だった。
 
自分たちのことを宣伝するのに、悪い点をわざわざ言う必要はない。大きく嘘

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福音を語るために不可欠な一点

福音を語るために不可欠な一点

人間的な欠点をとやかく言う必要はない。福音を公的に語る者も、ひとりの人間であり、様々な側面をもつはずである。だが、これなしではそういう立場に就くことはできない、という決定的な何かがあることを、私は認める。
 
キリスト教の信徒として生きること、その場でキリストを伝えること、そこには不思議な導きというものがあって、当人がたとえば捨て鉢のようにしていたとしても、聖霊は豊かに働くことがあって、不思議な救

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命ある説教であるために

命ある説教であるために

「お説教」となると何か叱られることかと思うが、「説教」だとどうだろうか。キリスト教の礼拝で牧師などが語る話を「説教」と呼ぶ。仏教なら「法話」と呼ばれることが多いだろうか。瀬戸内寂聴さんの『般若心経』というかつてのベストセラーの法話集を最近読んだが、実に面白くて、その法話には説教と通じるところが多々あるように思われてならなかった。いや、これは失礼な言い方である。そもそも「説教」という言葉自体、仏教由

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