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福音を語るために不可欠な一点

人間的な欠点をとやかく言う必要はない。福音を公的に語る者も、ひとりの人間であり、様々な側面をもつはずである。だが、これなしではそういう立場に就くことはできない、という決定的な何かがあることを、私は認める。
 
キリスト教の信徒として生きること、その場でキリストを伝えること、そこには不思議な導きというものがあって、当人がたとえば捨て鉢のようにしていたとしても、聖霊は豊かに働くことがあって、不思議な救いの業がそこから生まれるということがある。そのような証しもいろいろ聞いてきたから、つくづく神のなさることは素晴らしいと思う。互いに弱さを抱える信徒同士、祈り合い、支え合って成長していくことができたら、感謝するばかりである。
 
だが、生きた神の言葉を語ることを職務とするとなると、その基盤である一点を欠くことは、ありえない。それさえあれば、人間的にはどうであれ、神の言葉は命としてその唇からこぼれてくる。取り繕った聖書講演会などとは質的に全く違う、命の言葉がこぼれてくる。人間、いかに形を作っても、言葉の端々やちょっとした仕草に、その人の人間性というものが現れるというではないか。それと同様に、根本的に一点をもってさえいたら、福音の神髄は、ちゃんと現れてくる。人間的には非常に拙い人であっても、語る福音が嘘になるというようなことはない。
 
しかし、どんなに恰好をつけて装っても、その一点を欠いていると、言葉は決して命にはならない。空しい言葉が居並ぶし、肝腎の本人が神に救われた喜びというものを知らないのだから、決して福音を語っていることにはならない。いったい、幾度そうした人を見てきたであろう。時代が新しくなるにつれ、益々そういう人が増えているように思われてならない。小中学生の学力についても、時代と共に劣化が著しいのは、現場にいるとひしひしと感じるし、塾のテキストが年々易しいものへと改訂していかないと、教室で教えられなくなっていることは明らかである。
 
ひとを生かす言葉。命の言葉。それが滅びるようには思えない。現に、ひとを生かすメッセージが最近説教集となって出版されている。説教塾の発行している説教集の中にも、全国からそうした熱い思いが居並んでいることを感じる。もちろん、まだまだ福音がなくなることはない。ただ、玉石混交というのが実情であることは、否めないというだけである。
 
塾教師が、自分ではいい授業ができたと思っているのは、基本的にアウトである。テストをすると、全くできない結果を見て、愕然とする。子どもたちが、いま理解したとしても、それがその子の中で定着して、自分のものになっていかなければならないし、なによりその子がやる気をもつようにするのでなければ、結果は出てこない。話すほうの自画自賛には、何の意味もないどころか、むしろ弊害しかないのだ。
 
説教者が、自分でいい説教をしたと勘違いをしていないだろうか。この場合、殆ど、実はそれがいい説教でも何でもないのに、自分でいい気になっているのである。いい説教など考えてはならない。自分の中に命があるか、その命を告げているか、その命が聴く者に伝わっているか、聴く者に命が到達し、受け容れられたか。まずは自分が、福音に必要な一点に立っており、その一点を外していないかどうか、そこからこの過程は始まる。
 
それはまさに、命がけの説教だと言えるものであるに違いない。
 
なお最後に、ちょうど通読していた「世界説教学事典」の中で、深く肯く記述があったのでご紹介したい。「説教」に関する項目の一部である。
 
……もし説教が講壇から語られるときに生命を失ったものに聞こえたり、あるいは、説教が表す生命力が作為的で強制的なもののように思われてしまうならば、その原因は、おそらく、説教者自身がテキストをいのちを宿さない読み方で読んだからである。(p260)
 
まったく、その通りである。さらに言えば、説教者が命の言葉を知らないから、という実例があることも申し添えておかなければならないのが、悲しい。いったい、教会でトップに立とうとする意志や夢をもつ者が、自ら「証し」と称する長い話の中で、自分が世でなしてきた仕事を自慢げに見せて説明までしておきながら、罪・救い・信仰という言葉を全く口に出すことなしに終わるというようなことが、ありうるだろうか。仕事でとんでもない事件になりかねないことをしていたことを自覚した故に会社から逃げ、神学校に入ろうとしたとき、すでに牧師をしているきょうだいが、考え直せと諭したというのが、その辺りの事情を明確に示しているのではないだろうか。命の言葉をこのような人が語るには、今後予想もしない奇蹟が起こらなければならないだろう。もちろん、神はそのような奇蹟を起こすこともできる方であることは、私もよく分かっているつもりなのだが。

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