マガジンのカバー画像

こころに関する記事

57
運営しているクリエイター

#新しい自分

心と体は不可分

心と体は不可分

人間は、心(精神)と身体から成っています。心が思ったこと、決めたことを受けて身体が反応していくのです。逆に、身体に外傷を負うと心に伝わり、「痛い」などといった感情が発することになります。要するに、心と身体は一方通行の関係ではなく、相互に密接に関係しているのです。

いわば、心と身体は不可分で渾然一体のものと言っていいのです。だから、一方だけでなく、両者が健全な状態にあることが求められるのです。もし

もっとみる
悟りは待つものではない

悟りは待つものではない

禅の世界では、悟りを得ることを大切にしています。それは、「悟を待つを則(のり)と為す」というように、自分の中に純粋で清浄なる仏心に気づくことが大切なのだと言っているのです。

このように書くと、日本曹洞宗の道元は反対のことを言っているとお叱りを受けるかもしれません。確かに、道元は『正法眼蔵』「行持(上)」巻で
「大悟を待つことなかれ、大悟は家常の茶飯なり。不悟を願うことなかれ、不悟は髻中(けいちゅ

もっとみる
家を出るということ

家を出るということ

私たちの人生は出家して僧籍に入ることと同じような気がしています。もちろん実際に出家するわけではありませんが、たとえば、次のように対比できるのではないかと思うのです。

①親に保護されている時代 =出家の前の段階
②独り立ちする時代(大学入学、就職など) =出家の段階
③家庭を持つ時代(結婚、出産) =仏弟子を持つ時代
④家族が巣立ち一人になる時代(死に至る) =死んで釈尊や祖師たちの世界へ

①の

もっとみる
言葉では言い表せないもの

言葉では言い表せないもの

世の中には、「言語によっては表しえない真実が、そのように顕現している」ものがあります。たとえば、「仏とは〜である」と完璧に言い表すことはできませんけれども、仏は色々な形に現れることがあったり、あるいは見えないのだが確かに在るというものだからです。すなわち、ある一つの言い方(「仏とは〜である」)では表現しきれないからです。

そこで、禅宗では仏、仏心などの純粋で清浄なるものを、「恁麼」(いんも)とか

もっとみる
茶道にも修行がある

茶道にも修行がある

茶道は、もともと京都大徳寺を原点として発展してきたものです。名前に「道」があるように、単にお茶を飲むだけにとどまらず、茶の道を追求するのが茶道です。要するに、茶道にも修行が必要だということです。

そのために、七つの式作法を、禅語をもとに作り上げたと言われています。今回は、その基本的な考え方とはどのようなものなのかを記してみたいと思います。

・やりとりを互いに細かく心眼をもって看(み)よ= 互換

もっとみる
修行で何ができるようにするのか

修行で何ができるようにするのか

禅寺の修行は、かなり厳しいものと言われています。いったい、何を求めようとしているのでしょうか。

禅の世界では厳しい修行を経て身に具えるべき自在のはたらきとして、以下の七つをあげています。(種伝鈔という書に「七事随身」があり、茶道に適用された)

①大機大用(たいきだいゆう)   相手を見抜くはたらきの機と、
   相手に対してはたらきかける用。並外れた巧みで大きな能力。
②機弁迅速(きべんじんそ

もっとみる
ひとの道を向上する

ひとの道を向上する

私たちは、人格向上のために多大なる努力をしています。ここに言う「向上」とはどのようなことを意味しているのかを、仏教の「仏向上」を例にして考えてみたいと思います。

まずは、「向上」とは、より上であることを意味します。それならば、「仏向上」は、仏より上であることを意味していることになります。

ここで「仏」とは、仏教の修行を通して至る理想者を意味していますから、「仏向上」とは、仏の境涯をも超えること

もっとみる
 「法」には色々な意味がある

「法」には色々な意味がある

法(ほう)と聞くと、私たちは法律・規則などと思い浮かべます。しかし、もともとは仏教の根本思想の一つであり、サンスクリット語のダルマdharmaの訳語です。dharma は他にも達摩・曇摩(どんま)などの訳もあります。

平たく言うと「法」は、法則・性質・教・真理などの意味と、仏道修行というような道の意味と、ダルマによって支えられる一切の事象をも意味すると考えればいいでしょう。たとえば事象とは、人間

もっとみる
不思議とされるものなどないのが正しい教え

不思議とされるものなどないのが正しい教え

人間には魂があって、その魂が二つに分離して二人の人間が現れるなどということを信じている人はいるのでしょうか。普通は、魂が有るとか無いということは考えても意味がないのでしょう。正しい教えは「正法(しょうぼう)に不思議なし」と言うように、奇瑞(きずい)・奇跡など一つもないのです。「奇跡や不思議現象が有れば邪教である」ということです。

それでは、昔から言われている神通力というものはあるのでしょうか。

もっとみる
赤子のような心を何と呼ぶか

赤子のような心を何と呼ぶか

「大人(たいじん)は赤子(せきし)の心を失わず」(『孟子』)ということばがあります。素晴らしい徳のある人は、赤子ないし幼児の純一な心を失わない人という意味です。生まれたままの純粋で清浄なる心を持っているのです。

このような言い方は、色々な世界で言われています。キリスト教では、「赤子のような心でなければ神のもとに召されない」と言いますし、禅では「赤心片片(せきしんへんぺん)」と言います。

「赤心

もっとみる
多くの人が持っている八つの誤った見解

多くの人が持っている八つの誤った見解

私たちが陥りやすい見解(考え方)には、八つ(グループとしては四つ)ほどあります。別に八つだけに限定することもないと思うのですが、昔から八つと言っていますので、まずは八つについて考えてみましょう。

[生と滅]
生じるとか滅するというのは、いわば始まりと終わりを言っています。始まりと終わりがあるということは、その間に変わりゆくものがあると考えられます。敷衍すれば、生も滅もまた変わりゆく一形態なのです

もっとみる
偏らない生き方

偏らない生き方

「智に働けば角が立つ」という言い回しがあります。理知(理性や知恵)だけで割り切っていると他人と対立してしまうという意味です。では、どのようにすれば良いのでしょうか。今回は、偏らない「中する」ことについて、昔から言われている「中庸」と「中道」について考えてみたいと思います。

 「中庸(ちゅうよう)」とは、どちらにも偏らないことが、国家や組織がとるべき道、すなわち世の定理としています。
・儒教では、

もっとみる
 現代につながる禅宗の根本的教え

現代につながる禅宗の根本的教え

禅宗は、中国禅を経て日本で盛んになった教えです。基本的修行形態の一つである坐禅は、精神修養として欧米でも多くの人が参加しています。

禅の根本的な教えは難しいものではありません。その意味で、欧米にも広まっているのでしょう。以下に、根本的な教えを列挙しておきます。言わんとすることを読み取ってもらえると幸いです。

[見性成仏]
禅は、「仏は人間であり、人間を超えるものではない」を標榜する。キリスト教

もっとみる
本来の意味の宗教とは何か

本来の意味の宗教とは何か

宗教(しゅうきょう)は英語の religion を訳した言葉です。ここで、注意しておくべきことがあります。

まずは、日本語の「宗教」という語は、古くから仏教において「宗(おおもと)の教え」、つまり、究極の原理や真理を意味する「宗(おおもと)」に関する「教え」を意味していました。だから、天台宗、真言宗、浄土宗といった言い方が出てきたわけです。
 [注] 宗は、おおもと、本家、祖先という意味(例:

もっとみる